今月も、自分で買って読んだものの一部を含めてご紹介。
著者の藤生さんからいただきました。姜さん、上野さん、宮台さんといった社会学者を含め、団塊から50代の世代にとって、吉本隆明という人がどういう意味を持っていたのかを聞いたインタビュー集。そこから見えてくるのは、「知識社会の外側」としての吉本がもたらした衝撃だ。良くも悪くも、戦後社会の大衆性をぶっちゃけちゃったというか。それがどこに繋がったのかという意味での「DNA」は、特に現代においてはよく分からないけれど、以前Lifeでも喋った「思想の科学-吉本隆明-講壇マルクス主義」の三対の図式は、論壇的な対立の意味を考えるときには、いまでも有効なんじゃないか、と思う。
―転換期としての1990年代 (NHKブックス)
日本放送出版協会
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前者は担当編集の方から、後者は著者の和田さんからいただきました。毛利さんの本では、カルチュラル・スタディーズの立場からストリートのアクティビティを評価し、ポストモダン思想が脱政治化されていくのと入れ替わるようにして登場したそれらの「ストリート」が、政治性を帯び始めていることが指摘されている。むろんこうした「年代論」は、常に「偽史」でしかあり得ないし、納得できる部分も、そうでない部分もある。ただそういう「90年代の転換」を語るアクターが複数存在すること自体には、十分意味があると思う。
和田さんの本では、これまで書かれたいくつかの文章を集めながら、ランシエールの思想を軸にした「実存主義的な政治」の意味が語られていると読んだ。政治問題化されることで、その問題をつくり出す要素、いち客体として構成されることに抗う権利としての「街路への権利」を求める和田さんの主張は、ルートも結論もだいぶ違うとはいえ、毛利さんの本に通じている部分がある。
というより、両者はともに、ふたつの意味で00年代的な〈政治〉に抗おうとしているのだと思う。ひとつは、いわゆる既存の「左翼」の語り。和田さんは「フリーター」という「蔑称」が、社会問題化された瞬間にアイデンティティとして機能し、虐げられた人々という正当性を得る、その構図自体を批判する。すなわち、何かに抗おうとすることでは、誰かがその構図を生み出すことに抗えないことを告発しようとしているのだ。彼らにとってその構図を生み出す元凶は、既存の政党左翼とマスメディアの結びつきなのだろう。
そしてもうひとつの〈政治〉とは、それにも関わらず彼らがそこに「政治性」を見出していることからも明らかなとおり、「脱-左翼(反左翼ではない)」の極北としての価値相対化や、いまここでの現状に満足しながら生きるような人々、それを肯定する00年代的ポストモダンへの抵抗だ。おそらく彼らにとって、こうした一見価値中立的で、個人の自由を肯定する議論こそが、資本主義の原理による人間の序列化を肯定するという意味での「新自由主義イデオロギー」と結託し、その広がりを後押ししているということになっている。その非政治的な〈政治〉性は、隠蔽されているがゆえに許し難いものなのだろう。それに抗するための「政治」が、ストリートのポテンシャルとして存在しているというわけだ。
けど正直、僕はその図式は分からないでもないけど、随分と的を外した藁人形叩きだなあとも思う。ポストモダン思想が消費社会と結託して社会への批判性を失わせるかどうかなんて、それこそ吉本-埴谷論争の頃から問題になっていたことだし、まして知識人・言論人・文化人のポジションが当時よりはるかに後退しているいま、たかだか1万部程度の流通の本を書いている論者が新自由主義を後押しするとか、どう考えてもあり得ないだろう。この点では、経済政策と戦後の政治史を材料に社会分析をする後藤道夫のような人の議論の方が、はるかに説得力がある。
ちなみに僕自身は毛利さんや和田さんの言うことそのものには賛成で、というより一昨年の紀伊國屋書店でのイベント以来言い続けている、文学とか実存の価値の見直し、っていうのが、まさにそれに当たっている。実存の語りを政治化する回路が容易に生まれていることと、それに対するカウンターとして、実存から完全に切り離された「科学的」施策が打ち上げられる(べきだ)という主張の間の対立、いわば「市井の人々の実存を賭金にした政治」こそが、特に00年代に新自由主義的な政策や考え方を浸透させる要因になってきた、というのが僕の考えだ。それに抗おうとすれば、実存を政治化されないままに温存し、彼らのそのような領域を温存するために「科学的」手法を用いることが必要になるのではないか。
‐階層・ジェンダー・グローバル化
(大阪大学新世紀レクチャー)
大阪大学出版会
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気鋭の階層論、若年雇用の研究者による教科書。近年の若年雇用について一般に言われていることと、階層論の種々の道具立て(階級論から実証データまで)を対比させつつ、現状がどうなっているか、どのような対策が必要であるかについて述べられている。カバーする範囲は妥当な広さだし、実証的な裏付けをもって、非正規雇用におけるジェンダーの問題や、ロスジェネだけが特別に不幸なわけではないことを明らかにしているなど、僕が今まで書いてきたこととも繋がる――というより社会学者なら当然そう書くはずの――論点が列挙されていてとても役に立つ。
一方で残念なのは、政策的アウトプットの弱さだ。「はじめに」の部分では随分と威勢よく、次のように語られている。
あるとき非正規雇用について授業で議論していたら、ある学生が「いくらこんなことを教室で議論しても、非正規雇用はなくならないし、格差も埋まらない」といった悲観的な意見を述べたことがあった。このようなペシミズムは、私たち社会学者が生みだしたものである。社会の将来に対して何の展望も示さず、事実を並べ立てて曖昧な解釈を加えたり、一見面白い「ものの見方」を提示するだけで、社会を改善する可能性について地道に探求することを怠ってきた私たち社会学者が、社会と社会学に対する絶望を生んできたのである。
非正規雇用について研究するのは、非正規雇用の現状を正確に把握し、評価し、状況を改善する策を知りたいからである。価値判断や政策提言から逃げていては、何のために研究しているのか分からない。著書は、学術雑誌の論文と違って同業の研究者のチェックを受けていないので、質の高さの保証は受けられないが、そのかわり自由に価値判断や政策提言に踏み込んだ議論ができる。
まったくエビデンスのない主張であることを除けば、正しいことをおっしゃっている、と思う(ちなみに著者は、データのある現状の把握についてはとても実証的だが、それ以外の部分については思いこみや無根拠な断定による非難が目に付く。こうしたダブルスタンダードを平気で採用する人が、なぜか「実証」の大切さを説く人に多いように思えるのは、僕の認知バイアスなんだろうか)。では、その踏み込んだ政策提言とはどのようなものか。
まず挙げられているのは、コンパラブル・ワース(同一価値労働・同一賃金)の原則にのっとり、賃金格差を一定程度認めつつも、必要に応じて政府支出などで、人生のさまざまな局面でかさむ支出をカバーすべきだということ(P59)。それから、教育の階層化と標準化、具体的には高校の職業科の拡充と全国統一テストの導入(P163-165)。最後が、エスピン=アンデルセンを援用しつつ、日本を社会民主主義レジームへと近づけていくということだ(P175 )。
2点目の教育については、著者も述べるとおり一定の留保が必要だけれども、ある程度納得できる。しかし1点目と3点目、とくに社会民主主義レジームについての議論はいただけない。ライフステージに応じてお金がたくさん必要な時期に、現行のザルのような制度ではなく、きちんと政府保障を受けられる仕組みは絶対に必要だ。しかし、そんなことはみんな分かっているのだ。むしろ問題はその財源をどのように確保し、また配分するかということであるはずだ。そしてその点についての実証的なモデルは、既に経済学や社会保障論などでたくさん論じられているのである。
また社会民主主義レジームにしても、「日本の文化的伝統を振り返ってみるに、決してアングロサクソン型の自由主義レジームと親和性があるわけではない」(P175)と論じているが、こちらについても、アングロサクソン社会が個人主義の自由競争社会で、日本はそれとは異なるという「神話」が、実証的に誤りであることが既に社会心理学者たちによって何度も指摘されている。それだけでなく、海外の社会民主主義モデル(例えば北欧など)を、どのように日本型にアレンジすることができるかという点についても、宮本太郎さんたちのチームを始め、政治学でかなりの実証的な蓄積があるし、経済誌のレベルですらもうちょっと丁寧に取り上げているはずだ。
本書で一番残念なのは、こうした蓄積がほとんどスルーされ、社会民主主義レジームに向かうために一般市民ができることとして、労働組合を支持すること、社民政党に投票すること、といった、ごくごく一般的な「解決策」しか述べられていないということだ。確かに市民にできることは少ないかもしれないが、政治制度を選ぶのはその市民なのであり、彼らが社会民主主義レジームの中身や、日本への応用可能性について少しでも理解していなければ、結局はお仕着せの「左翼」の政治に回収されること――有象無象の一票になること――しか、できることはなくなってしまう。それはあまりに有権者を馬鹿にした発想ではないのか。
格差なんてなくならない、という社会学へのペシミズムを生み出したのは、いいかげんな社会解釈を振り回す自称・社会学者ではなくて、政策提言をすると称して、さんざん数式を勉強させた挙げ句、しょーもない一般論を結論に持ち出す社会学者なんじゃないか、と思う。読み終えて、ああ社会学は政治学や経済学に比して、非正規雇用問題についての政策提言能力は著しく劣るのだな、と皮肉のひとつも言いたくなった。本書の言う「政策提言」とは、あくまで「何をすべきか」という水準の話であって、「それをどうやって達成するか」といった話は、どうやら学者の仕事の領分外だということになっているらしい。
ちなみに普通に教科書として書かれている部分はとても充実している。個人的には階層帰属意識の問題など、階層論からでも社会学の理論的な醍醐味に迫れる部分はあるのに、さらっとしか触れられていないのがもったいないなとか、思うところはあるけれど、教科書指定するにはとてもコンパクトで役立つ本だと思う。それだけに返す返す残念なのは、どうでもいい藁人形叩きが散見されることだ。根拠なく構築された仮想敵叩きこそが逆機能をもたらすという点に対しては、左翼も、ストリートも、実証主義者も、同じように鈍感なのだと思う。
佐々木さんの新刊。めんどくさい本である。別に貶しているわけではなくて、どのように本書を取り上げようとも、それ自体が既に本書の中に既に折り込まれた主張のようになってしまうからだ。そりゃもちろん、多くの人が、佐々木敦の初の新書として浅田、宮台、東という、昨今の「思想」のド本命ラインを選んできたことに、驚きを禁じ得ないだろう。むろんそこにも著者なりのオリジナリティはあって、例えば本書では上野千鶴子や仲正昌樹が「ポストモダン」を語るときの定番である、連合赤軍と消費社会化の問題についてはほとんど触れられず、一方で80年代を起点とした「その後」の展開/転回がメインテーマになっている。
多くの本が、90年代以降の流れについて、「80年代の歪んだ帰結」的な扱いになっているのに対して、今の若い子が読みたかった――そして当時を知る人が納得のいく――「偽史(あるいは稗史)」が出てきたことは、とても大事なことだ。ただ、こうした「大阪風のたこ焼きしかないから明石焼きを作ってみました」流のアプローチは面白いのだけど、「でも佐々木さんパスタとか作れましたよね?!」とも思うわけだ。まあ、きっと本書に続く作品が、たらこスパゲッティもびっくりのアレンジ・パスタになっているのだと思うんだけど。
しかし本書を読んであらためて思うのは、「ポストモダン」なる思想のややこしさだ。本書で引かれている蓮見の指摘にも繋がることだけれど、ほんとうのポストモダンは、モダンとかポストモダンが意識もされなくなり、それこそポストモダン的な原理に則ってポストモダンが徹底批判されることなのだと思う。その意味で、パフォーマンスとして現状肯定が導かれた80年代と、思想の否定と現状否定が共犯する00年代は、原理において完全に地続きだ。僕はそれをポストモダンとは呼ばないし、ましてポストモダニストですらないけれど、そういう扱い方で00年代の風景を描写すれば、来年辺りの(局所的)ベストセラー狙えるんじゃね?とは思った。
追記:前の職場に届いていたものや、紹介できていなかったものも挙げておきます。
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