カネと人の輪

雑記

8月の調査のことを思い出していた。無理矢理スケジュールを作って有明に行ったら、デジカメを落として午前中に行った調査のデータがフイになった嫌な記憶が甦る。ともあれお盆のせいもあって、なんか街中が浮き足立っているようにも思えた。こういうざわついた空間を、ぼんやりと一人で歩くのは嫌いじゃない。同じ都市空間でも、東京と大阪では、やっぱり人と人との距離が違うなあと思う。東京の人は、あれだけ密集していても、どこか他者に対するパーソナル・スペースを意識していて、あまり人とぶつかることがないし、急いでいれば必ずどこかの隙間を塗って前に出られるのだ。

それを「個人が砂粒のようにばらばらに生きる空間」と表現することはできる。たぶん、他人に対する距離感は、どちらもそんなに変わらないのだろうけど、関西の方が多少「壁が薄い」感じはある。相手のところまで踏み込んでいくタイミングの早さ、とでも言おうか。僕は元々そういうのが苦手で、特に、踏み込まれることよりも、踏み込まれたことに対する応答として、その相手に対して何らかの関心を示さなければならないことが辛いことが多いのだけど、そういうことに気付かなくてもいいくらい、砂粒のような関係が「発達」しているのがこの場所の特徴なのかもしれない。

カネか人の輪か、という選択がある。何か困ったことがあったときに、ソーシャル・キャピタル(社会関係資本――というか「コネ」や「ツテ」)を利用するか、市場化された商品・サービスを購入するか、ということだ。この場合の「人の輪」は、もちろん地縁や血縁だけに限らなくて、出身地が同じだとか、同じSNSのコミュに属しているとか、公共空間における私的・公的な繋がりだって含む。近代の都市において市場が発達したのは、そこにやってくる人々が生まれながらにして持っていた人の輪を離れ、新しい輪を形成することを期待していたからだ、と思う。身寄りのない人々にとっては、誰かと出会い、新しい家族や仲間を形成するまでの間は、市場化されたサービスこそが生命線なのだ。

世界中の社会科学系の研究者が「人の輪」の方に注目しているのが、この十年くらいの動向だと思う。その理由は、社会哲学系の倫理的な議論を踏まえつつ、そこそこ実証的な成果が期待でき、現場が多岐にわたるので研究者どうしの市場の食い合いが起きにくい、という身も蓋もない理由を除けば、サービスの市場化がある程度進み、そこで必要なモノを購入できる環境が整ってきたからじゃないか、という気がしている。海外の場合はそれぞれ事情が大きく異なるだろうけれど、特に日本ではどうも、Business TiesをBridgeするところの話は「がっついて」見えるらしく、文字通り「人の輪」――つまり市場で購入できない関係――の方に比重が寄っているように見える。パーソンズのパターン変数で言えば、業績主義より属性主義の方が注目されているというか。いや門外漢の勝手な感想ですけれども。

あるエリアがどちらかに偏っているということはなくて、もちろんどちらの要素も含まれているのだろうけれど、何かの実績を上げるのに使えるのが、業績主義的な資本(相手が何をできる人か)か属性主義的な資本(相手がどんな人か)か、という違いはあると思う。隣の人間の属性が不明な流動性の高い都市では、相手の言ってることを信用するためのリソースは、まずもって業績になるけれど、付き合いが深まって流動性が下がったり、そもそも流動性の低い繋がりがハブの周辺に確保されていたりすると、最初に属性を明らかにした上でなければ、その輪の中での信用を得られない。

どちらのやり方にも一長一短あって、業績主義が強い場所では、流動性も高いので、山師のようなうさんくさい連中も、一攫千金を夢見て集まってくる。だからこそ余計「業績」の方を見なきゃいけなくなるのだけど、最終的なスクリーニングは、属性主義的な原則に沿って行われることになりがちだ。簡単に言うと、最初は調子のいい奴を集めて広がっていった輪が、だんだん内輪化して、閉鎖的になるということ。一方、そうやって属性主義的に集まった輪も、閉鎖的になってしまうという欠点があるけれど、他方でそれまでの業績を無視した、あるいは採算を度外視したプロジェクトを動かす力を生むこともある。つまり、相手がある程度知っている間柄だからこそ「よっしゃ、お前がそう言うんなら、面白いからいっちょやってみようか」という冒険ができるということだ。

東京で、ベンチャーで、一攫千金だった時代の渦の中にいた僕にとって、業績主義が立ち上がってくる瞬間のパワーは面白かったけど、しょーもねーなーとも感じていた。思ったよりも業績のある奴が集まってこなくて、うさんくさいのをスクリーニングするだけで疲れちゃうからっていうのもある。どちらかというと上の世代のギラギラした感じにうんざりしていた僕らは、彼らのパワーに惹きつけられて集まりつつ、そこで生まれた同世代の繋がりに、属性主義的な「人の輪」を見出していった。その心地の良さは、どんな土地にもあったものだと思うけれど、そのサイクルが何周かして既に「人の輪」が生まれた状態で、活動拠点を移したのが、最初のズレになっているのかな、という気がしてきた。今更属性を明かした上でお友達になりましょう、でもないだろうと。それに僕は、別にギラギラはしてないけれど、変化させることを諦めた覚えはないし。

マレビトで、よそ者(マージナル・マン)で、トリックスターで。そういう存在が安定した「人の輪」をかき乱すことで、人類社会の深みは形成されてきた。境界線上の人たちばかりの社会でマージナルで居続けることは容易いけれど、それは何も変えたことにはならないのだろうな、と思うようになってきている。

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