ABCからCCCへ

雑記

最近Twitter上で思想地図周辺の人たちのつぶやきを見ていると「アーキテクチャ派」と「コンテンツ派」という用語が飛び交っている。その意味するところが僕にはまだ分からないのだけど、どうやら前者の代表が濱野君で後者の代表が宇野君らしい、と分かって、ああ、これは「派閥」というよりは「ヘーゲル右派」と「ヘーゲル左派」みたいなものね、と思った。で、略称として「A派」と「C派」なんて言葉も出てきて、じゃあ「B派」って何よ、というところまで考えて思い出したのが、Lifeでも何度か話題にした「ABCからCCCへ」というフレーズだった。

このフレーズは、言葉通りには「青山ブックセンターから、TSUTAYAの営業母体であるカルチュア・コンビニエンス・クラブへ」ということで、文化的なものの存在感の中心がシフトしていることを表現している。もちろんただの語呂合わせで、何か根拠がある話じゃないのだけど、悪乗りついでに考えてみると、この符丁は色々と面白いところがある。

ABCのA=青山は、東京の「おしゃれな街」の代名詞だった。少し地域を広げて言えば、青山・表参道・原宿周辺というのが、昭和40年代頃から始まる紙媒体を中心とした文化の発信源だった。最近、この頃のクリエイターたちが自分の中でマイブームなのだけど、ともあれ最初の10年くらいはとても活気に溢れていたこの文化も、「東京の輝き」とともに過去のものになりつつある。

B=書籍は、紙媒体が文化の中心だった頃、まさに花形の文化だった。単著作を頂点とするピラミッドがあり、雑誌誌面をたくさんのライターが飾っていた。けど、出版産業は90年代の後半から一貫して低落傾向にあり、広告費の総額で言えば、とうとうインターネットに追い抜かれてしまった。出版社を志望する文系学生はいまでも多いけれど、書き手になろうという人は少ない。

C=センター。この言葉は、色んな意味で「ネット以前的」な響きを持っている。中央集権という意味合いもあるし、何かを集約していることという意味もある。「ここに来れば何かが集められている」というのは、モノが物理的な空間に配置されることで価値を帯びるという、リアル店舗のもっとも重要な要素を体現する出来事なのだが、逆の見方をすれば「これはここにしかない」という形で、モノの流れに限界を作ることでしか、その付加価値性は生まれないということだ。

要するに「ABC」とは「東京・に・文化・を・集約する」という意味なのだ。それに対する「CCC」は、地域の面から見ても、文化の面から見ても、ABC的なものを脱構築(笑)する。

CCC的な「C」すなわち「カルチャー」とは、まずもって文化産業の担い手となる「コンテンツ」の総体のことである。書籍だけではない。というかTSUTAYAで書籍コーナーを持っているところの方が少ないだろう。映画と音楽は、より感覚的、直接的な形で僕たちの中に入り込んでくるし、景気の悪い時代には、もっとも手軽な余暇活動の友になる。

二番目の「C」とは、そのまま「コンビニエンス・ストア」だ。コンビニはいまや単に「24時間開いている弁当屋」ではない。そもそも紙媒体がもっとも消費者にリーチしている現場は、書店ではなくてコンビニだし、店内の情報端末を使えば、コンサートや演劇、美術展などのチケットも購入できる。店内放送では最新ヒット曲が新商品の広告の合間に紹介され、廉価版のDVDや新作ゲームの予約だって受け付けている。そして文化産業は、コンビニとの「タイアップ」を通じて消費者に対して大規模プロモーションを展開するのである。

三番目の「C」、クラブ。この言葉には、ふたつの意味を読み込むことができるだろう。ひとつは、「センター」に対応する場としての「クラブ」。つまり、すべてを集約しているのではなくて、単に同好の士が集まる場所で、複数あり得るということ。そしてもうひとつは、「盛り場」としてのクラブという意味だ。むろん後者のクラブを、グローバルな繋がりをもつ東京の大箱としてイメージすることもできようが、それはクラブシーンの全体などでは決してない。mixiで企画されるJ-POPイベントのようなものまで含めて、それはいまやドメスティックで、ローカルなものなのである(ジモト大好き系・親に感謝系のラップやレゲエなんかも、そこに入るだろう)。

ABCに対するCCCは、ABCのように「なにをどうする」と表現できない。雑多な文化が日本中にばらまかれており、それは一方でインフラとしてフラット化しながら、他方でそこに強烈なローカル性(ジモト意識)を生んでもいる。東京から地方へ、書物から音と映像へ、集約から分散へ。そして何より重要なのは、それが「象徴資本から経済資本へ」という変化を引き起こしているということだ。

ブルデュー的な意味での象徴資本の議論は、ある面では「分かる奴には分かる」式の文化を、単なる内輪というだけでなく、階級として再生産されるものとして糾弾するという性格を有していた。対してCCC的な「文化=コンテンツ」は、少なくともそういう「敷居の高さ」を売りにはしない。文化産業である以上それは当たり前のことなのだが、同時にその「産業」は非常にコストのかからないものだったり、あるいは「持ち家を買う」「車を買う」といった消費行動の代替だと考えれば、十分に「安価」なものだったりしている。

すなわちCCCは、二重の意味で「文化左翼」に踏み絵を迫るわけだ。文化のジモト化を「右傾化・保守化」の現れと見なすべきか(政治的踏み絵)。象徴資本を背景にした階級による疎外を無視し、経済資本による疎外だけを批判することができるのか(経済的踏み絵)。最近の郊外論を、こういうカルスタ的文脈から読み直すという試みもアリな気がするのだけど、そういう人って結局、A派なのかな、C派なのかな。まあ、所詮はダジャレなので気になるなら誰かが考えてみればいい。

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