12月のいただきもの

雑記

今月は少し早いけど、年末のぎりぎりになって届くものもないだろうということで一週間前の更新。ご恵投いただいたみなさまどうもありがとうございました。

メディア・情報・消費社会 (社会学ベーシックス6)
伊藤 公雄
世界思想社
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教科書として使う本というのは、できる限り古典をふまえているものがいい。それらは現代においてはそのまま受け入れられないものも多いが、さりとてそれを否定する「新しい古典」もさほど数はないので、結局古典からの距離で現代を語ることになるからだ。というわけでとてもよくできた古典読解の教科書。マクルーハン、オングに始まり、「沈黙のらせん」や「コミュニケーションの二段の流れ」「消費社会」など、基礎的な概念を把握するのに必要な本がわかりやすく解説されている。「社会学ベーシックス」というシリーズの6巻らしいので、既刊も買ってみようと思う。

関係ないけど、以前、東さんが「英語圏のように古典をダイジェストで読めるリーダーが必要」と言っていたけど、こうやってまとめが出ると、逆にそれも必要かなと思う。書いてあることは説明すればわかる学生でも、「文体」のレベルで古典が読めない子がけっこういるのだ。

広告のクロノロジー―マスメディアの世紀を超えて―
難波 功士
世界思想社
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難波先生らしい、広告史を通じて戦前から現代までの歴史を俯瞰する手堅い研究。特に関西の広告史と、「クリエイティブ」を巡る60年代と90年代の比較の部分は、いま自分が関わっている領域にまで影響するところなので、じっくり読まなきゃなと思った。それ以外にも、広告賞の歴史やサブカルとしての広告など、内側にいた人ならではの切り口は興味深いものがある。

とはいえ、やはり気になってしまうのは、その「広告」がとてもメディア依存的なものであったということを、つくづく思い知らされてしまうところだ。CMは、CMの時間に挟まるものだった。しかし現代では「広告費」と「販促費」の境目も曖昧だし、そもそも「便利ツール」なのか「広告」なのかわからない媒体があちらこちらに配置されている。「広告を読む」ことは、ますます社会心理学の分野の仕事になりそうだ、と思うと、メディア研究のこれからって大変だなあと、人ごとのように思うのである。

ネット検索革命
ネット検索革命

posted with amazlet at 09.12.22
アレクサンダー・ハラヴェ
青土社
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「検索」が鍵技術になるなどということは、10年前には予想もつかなかったことだと思う。Googleという企業の「ミッション」や、その飽くなき拡大志向が現在の状況を生んだことは間違いないが、それを単なるGoogle分析にとどまらず、「検索する」という行為の方から理論づけようとしたのが本書。Polityから原著が出たのは今年だが、下手に最新事例に依拠しすぎず、他方でアイデンティティやウェブの「ソーシャル」な側面にも目配せの聞いた本になっている。

技術の浸透がかえって共同体や人間の本来性を目覚めさせる、あるいは求めさせるという発想は、僕の知る限り社会学のありがちな見解なのだけれど、非英語圏ウェブのドメスティックな性格のせいもあって、なかなか「足下の話」を超えられない。こういう形で海外の最新事例が紹介されるのは、ほんとうに助かることだ。

世論の曲解 なぜ自民党は大敗したのか (光文社新書)
菅原琢
光文社
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著者は僕と同い年の政治学者で、蒲島郁夫さんの弟子の方らしい。中央公論の共著論文は興味深く読んだ記憶がある。自民党大敗に至る「小泉人気」「麻生人気」に踊るメディアや専門家の間違いを実証データで正しつつ、政治リテラシーを高める必要性をマニフェストする姿勢は、とても好感が持てるし、実際に興味深いデータも多い。何より、調査スキルがある人ならではの、設問のワーディングが結果にもたらす影響について述べているところなど、専門的に勉強したことのない人には役立つ情報になるだろう。

が、いただけない部分もある。さしあたり自分に関係するところでいうと、「ネット世論」の虚妄性を指摘した6章だろうか。ここで著者は、香山リカの「ぷちナショ」論や高原基彰、北田暁大や僕の議論をあげつつ、これらが、憲法改正に賛成しているから若者は右傾化していると決めつけているとか、一部の事例を若年層一般に拡大していると指摘しているが、明らかに原典を読んだとも思えないレベルの誤読である。また、前段でのそうした「専門家」の主張に対して、後段では複数のデータを用いて「ネット利用者が若者に限らないこと」や「情報ソースとしてネットだけが参照されているわけではないこと」が指摘されているが、その水準の「論拠」で批判できるのは、「ネット世論がすべてだ」と指摘するくらい極端なメディアや専門家であるはずだ。

著者は、ネット世論を過大評価する似非専門家やメディアは淘汰されるべきだ、と述べている。大賛成だ。で、そんなアホはどこにいるのだ?と思う。本書の冒頭で著者は、後藤和智の著書を挙げつつ、「ミイラ取りがミイラになった」「汚れた布で眼鏡を拭いていては、いつまでも視界不良のまま」と手厳しい批判をしているが、それは著者にもそっくり当てはまっていないだろうか。すなわちここでは、「似非専門家」「メディア」の主張が色眼鏡で選定されている可能性があり、また、それらが「世論」に与えた影響はほとんど検証されていないのである(こうしたダブルスタンダードを平気で採用する実証研究者が多いように思えるのは……僕の確証バイアスか)。

せいぜい数万部の著書や雑誌の記事と、テレビのワイドショーなどで「若者が堕落している」とコメントするタレント、その存在感を武器に国政に入っていく実践家、メディアを見てご近所や同僚と話の種にする人。どういったところがもっとも「世論」形成に寄与しているのか、社会学のメディア研究には長い蓄積があるのだが、どうやら著者はそのあたりには目を配っていないようだ。しかし本書が「メディアが健全になれば世論が健全になる」などとナイーブな読まれ方をされれば、再び「あいつが戦犯だ」と盛り上がる「一部の人」を再生産するだけだろう。学問の世界でも異分野の連帯が必要だということを痛感した一冊だった。

パワーレスエコノミー―2010年「憂鬱の靄」とその先の「光」
斎藤 精一郎
日本経済新聞出版社
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ガルブレイスの翻訳などでも知られる著者の新著では、「大不況」後の世界情勢をにらみつつ、2010年以降を本格的な「不確実性の時代」と捉え、現在まで「失われた20年」を過ごしてしまった日本が自立回復の道に入るためには、市民生活を起点とする発想で生活保障や所得再分配を行い、新しい成長モデルを確立しなければならないという。そのモデルとは、いまの輸出依存型モデルでも、人口減少をふまえれば無責任としか言いようのない内需拡大モデルでも、現実的にコペルニクス的転回が難しいサービス経済型モデルでもなく、海外投資型モデルであるという。

僕自身の立場は、可能な限り非物質経済での付加価値性を高める方向で国内投資を増やしていくべきだというものだけど、FDI(対外直接投資)を増やしてアドバンテージを取ろうという著者の戦略にも共感するところはある。すべての分野でというわけにはいかないだろうが、既に付加価値競争の点で投資の限界効用が見えている分野は、積極的に「レガシー技術」として海外に移転し、それらを組み合わせるモデル作りに注進する国内の体制を築くべきだと思う。

それ以外の話だと、90年代の「面白いか面白くないか」、00年代の「勝つか負けるか」に対して、10年代の価値は「拡がるか縮むか」だという著者の主張は、直感的にはわかるなという気がした。もちろんすべての要素はいつの時代にもあるけれど、拡がり志向に辟易していた東京での00年代に対して、縮み志向にうんざりしている現在の関西の僕は、「どっちもやだなあ」と感じてしまうのだ。願わくば、「縮み志向」が技術進化とともにブレイクスルーへとつながった昭和40年代のような変化が、2010年代にも起こりますように。

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