僕らの死を想う

雑記

年の瀬になると、いつも死ぬことを考える。死にたいというのではなく、漠然と自分が死ぬことを思う。もしも今日が人生の終わりの日なら、何をして、誰のことを考えるだろうと思う。年末の乾いて澄んだ空気は、全部をなげうってしまうのにちょうど向いている。不快感を表明する必要も、誰かと誰かの諍いも、引き受けてしまった口約束も。

若いときに考える死は、たいてい孤独の中で、関係性について思考をめぐらす中から出てくる想念だ。年をとって想う死は、関係性の中で、孤独の意味を求めて辿り着く理想だ。若者が孤独のうちに死を夢想するのに対し、老人はどうやって死ぬための孤独を手に入れられるか考える。どちらも、死がいまここにないからこそ出てくる思考だ。

今年は、人との別れ、あるいは死別について考えることの多い年だった。また楽しくやろうぜ、と手をたたき合った人が、次の瞬間には、いない。死はいつも遺された側にとっての出来事だ。だから僕らは、死に意味を見いだそうとする。いや、生に意味を見いだすのだ。出会えたことに、生きていたことに。

ハンス・ウィルヘルムの『ずーっと、ずっと、だいすきだよ』で、主人公は、遺された側にとっての死の意味を、出会いに求めている。幼い頃から一緒に育った飼い犬エルフィーの死を前に彼は想う。「いつかぼくも、ほかの犬を、かうだろうし 子ネコやキンギョも、かうだろう。 なにをかっても、まいばん きっと、いってやるんだ。 『ずーっと、ずっと、だいすきだよ』って」。

出会うことができたのなら、別れにも意味がある。逆に言えば、誰かと出会った人は、もう自分の死に際して、相手の中に意味を生んでしまうことから逃れられない。そのことを分かって、それでも誰かと関わろうとするのは、人間関係が容易にキャパシティーを超える現代では、とても辛い。いっそ「家族以外は全部他人、家族となら何でも分かち合える」とか言い切れた方がよっぽど楽だろう。

関東の人の優しさは、好きでもない人に情けをかけないところだ。関西の人の優しさは、好きでもない人を「おもてなし」の心で楽しませられるところだ。でも、博多の人のいいところは、出会った人を片っ端から好きになれることだと思う。他方で、相手の方も自分のことを同じくらい好きに違いないと決めてかかるから、だまされやすいとも言うし、それだけに過剰に自己防衛的になることもある。

そういうややこしい人間にとって、あちこちに「出会い」の機会を持つことになる転居・転職その他人生の節目は、割と大変なことなのだ。すれ違いもあったし、結構まじめに悩んだり、帰っちゃ酒って時期もあったな。何も解決したわけではないけれど、それでも状況が少しずつ動いて、自分一人ではどうしようもできないことが増えて、ああまたここでも誰かの中に意味を遺してしまう、と思うのは、やっぱり贅沢というものなのだろう。


最後に、もう10年以上、毎年この時期になるとウェブのどこかには書き付けていることを書きます。「七味五悦三会」という言葉があります。大晦日の夜、除夜の鐘が鳴っている間に、その年に食べたおいしいものを七つ、楽しかったことを五つ、出会えてよかった人を三人挙げられたら、その年はいい年だったねといって終えられるという、江戸の人の風習なのだそうです。

あなたの一年が、誰かにとって意味のあるものであったのなら、それは幸福なことだと思います。よいお年を。

ずーっと ずっと だいすきだよ (児童図書館・絵本の部屋)
ハンス ウィルヘルム
評論社
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