私的に考え、公的に行動する

雑記

2010年のはじまり。だからといって特別なことがあるわけではなく、昨日の続きの金曜日だとも言える。今年はどうなる、なんてたいそうな未来予測もできないし、したから、しなかったからといって何がどうなるわけでもない。だけれども、「どうなってほしいか」ということについて書くことは必要なんじゃないかと思う。どうなってほしくないかについて書くよりは、少なくともその方がましだろうと思うから。

2001年に物書きデビューした自分にとって、00年代と自分のキャリアは、切っても切り離せない関係にある。経済的自由主義やグローバル化の趨勢の中で、存在論的安心の調達の場としてネットやサブカルをコアとしたコミュニティの可能性を論じるという切り口そのものは、ワンパターンというくらい何も変わっていないけど、自分が評価される文脈は大きく変わったと思う。「再帰性」なんて言葉は00年代の前半には一部の研究者を除いて誰も口にしなかったし、経済的自由主義の波に対して社会学ができることについて論じる基盤もなかった。もちろん、社会学という文脈を外せば、いまでもこうした用語系で現代社会を論じる潮流は、ごくごくマイナーではあるが。

出鼻をくじくようだけれど、そもそも社会学が、現代社会の大きな流れに対して、社会科学のセオリーである「政策提言」の役割を担うのは、とても難しいと思う。その理由には外在的なものと、内在的なものがある。外在的な理由は、現在の日本の政治システムでは「提言」された政策がそのまま実施されることはほぼあり得ないし、またそのシステムに関与するための仕組みが複雑すぎること、言い換えれば、ひとりの社会学者が政治家や官僚の頭越しに政策を作ることなど不可能だということ。

内在的な理由としては、社会学が「最後の人文社会科学」として登場したという事情から、19世紀、ぎりぎり拾って20世紀半ばまでの隣接諸科学の最新の知見を吸収して発展してきたものの、それ以降「社会学を学ぶ」ことだけでは、他の領域の最先端の知見をフォローすることが難しくなったということがある。そちらの方にも事情や課題はあるだろうが、社会学に限っていえば、手法は洗練されるものの、調査対象の選定や回収率に問題を抱える数量調査による実証系、社会学独自の強みを持ちつつも、限定された一般性しか導出し得ないケースも目立つ質的調査系、堅実だが独創性に欠ける文献調査・言説分析系、独創的な場合もあるが当たり外れの大きい文化社会学系と、社会学の中ですら「どこをとっても難あり」な状態に陥っているように思える。

そんな中で、社会科学の中心は、いわゆるマクロ変数を扱う数理実証系と、ネットワーク理論を駆使するモデル・シミュレーション系になっていくと思われる。この辺から、難しい理論をかみ砕いて現実に応用する人が増えてくれば、いよいよ社会学は「用済み」になり――したがって不当に高く評価された上で叩かれることもなくなっていくだろうと思っている。その上で、それらに対する個別の批判、たとえば特定の変数の効果は暫定的なものでしかないとか、マクロ政策と実際の効果のタイムラグであるとか、中範囲での応用可能性とか、そういう残余の問題が出てくれば、それを補完する社会学の仕事も出てくるだろうと。

そういう動向にこれまでの自分の仕事を位置づけるなら、マクロ政策の方向性とその重心について考えてきた、ということになるのだろう。それも、おそらく単位で言えば一世代をまたぐくらい、つまり30年くらいを目処にしている。というのも社会学は、短期的な繰り返しゲームにおける均衡だけではなく、そこで生じた価値が、世代を超えて継承されたり、逆に葛藤を引き起こしたりするところに、社会変動の契機を見いだしてきたからだ。言い換えれば「何が今扱われるべき問題・課題か」ということを扱う普遍的な指標を、社会学は探求し続けてきたわけだ。

「そんなのもう無理じゃね?」というツッコミのもっとも高度なものが、いなばさんの『社会学入門』だったと思うのだけど、僕としてはもう少しその路線で粘る意味はあると思っている。確かに世界的に考えれば既にグローバル化に伴う構造変動論は枯れた領域だし、それに伴う価値の揺らぎというテーマでも、バーバラ・エーレンライクのような人による優れた研究が蓄積されている。でも、構造変動だってまだきちんと日本モデルが確立されているわけではない(中井浩之氏の著作はとても参考になる本だった)。

価値の揺らぎに対しても、日本を対象に描けているものは皆無で、まして一般向けに平易に解説したものとなると、ビジネス系の自己啓発所のたぐいになってしまう。僕が苛立っているのは、「学者の領分を守る」と称しながら、こうした社会的な、「目の前の現実」に対して鈍感な人たちがあまりに多いことだ。「できることだけをやる」という態度は、一見誠実で美しいけれど、そこで切り捨てられた人たちに対して「自己責任」を押しつけているだけに過ぎないこともある(まあこういうツッコミ自体、あまり美しいものではないけれど)。

「グローバルに考え、ローカルに行動する」という標語がある。ウルリッヒ・ベックはそれに対して「ローカルに思考し、グローバルに行動せよ」という。しかし、本質的に意味することは同じではないかという気がする。僕たちは、ローカルな文脈を離れて全体を論じることなどできないということだ。相手によって、その文脈が果たす意味は違うから、どちらが正しいなどということもない。しかし日本の、とりわけ社会的な問題に関心のある研究者や物書きが意識すべきは、自らの探求の「公」性ではなく、「私」性なのではないか、と思う。

科学的な手法を洗練させることは、ともすれば「私」性や個人の価値観を、自らの営みから切り離すことだと考えがちだ。それがさらに進めば、あらゆる意味で「価値中立的」なマクロ政策こそが、近代啓蒙哲学のような「正義」の理論に対して優越するとすら言われかねない(この意味である種の工学主義者や、あるいは彼らの意図に反して、ベタな実証主義者も、実はとても純粋なポストモダニストだ)。だがそれは、間違いとは言えないものの、明らかに「言い過ぎ」だ。マクロ政策の後に、価値観が自己責任で選択されるわけではない。少なくともそこには、様々な重み付けを必要とするマイノリティやハンディキャップを抱えた人がいるのだ。彼らに重み付けを付加するのは誰か?公共政策だけではなく、ローカルに、そして公的に行動する人々だろう。

彼らを動かすのは、私的な動機付けであり、グローバルな思考の枠組みだ。この「私的に考え、公的に行動する」という原理を、グローバル時代のマクロ政策の補完的なそれとして位置づけるに当たって、社会学が貢献できることはまだまだ多い。良くも悪くも、社会学はその「ウエットさ」がよいところだと思うので、時代の流行には目配せをしつつ、「攻めの姿勢」で「できることをする」べきなのだ。というわけで2010年は、そういう攻めてる若手の登場を期待します。・・・え?僕ですか?

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