「ジリ貧」の美学

雑記

どんな事柄にも、美学というものがある。代表的なのは「滅びの美学」だろう。合理的な判断による生き残りではなく、美意識を貫いて滅びを選ぶという選択は、美が何者にも優越するという点で、それの典型的な例となっている。

しかしながら個人主義化した社会では、その美学は、端的に「死ぬなら勝手に一人で死ね、俺を巻き込むな」という形でしか正当化され得ない。個人が選択する出来事なら、それでもかまわないのかもしれない。では、滅びの対象が、共同体や文化だった場合には?

ある時期から、徹夜自慢のようなものを意識的に避けるようになった。自分がどれだけ忙しいか、どれだけ寝ていないかをついつい口にしてしまうのは、誰でもやりがちなことだけれど、仕事をしていくうちに分かるのは、要求された時間内にタスクをクリアすることや体調管理も生産性のうちであり、「がんばればできる」というのは、自分のことを心配してくれる少数の人以外にとって、必ずしも歓迎されるスキルではないということだ。Twitterでは毎朝ニュースをクリップしているけれど、これももう10年近く続けている習慣で、そのリズムをキープすることが、自分の中の重要なバロメーターになっている。「当たり前のようにできること」をカタログ化しておく方が、長期的に見て意味があるだろうという判断だ。

そういう考え方に至るようになったきっかけは、ウェブ日記に書いていた多忙自慢を、友人にとがめられたからだった。単に心配をかけるというだけでなくて、それが発信されることで、忙しさ、慌ただしさのようなネガティブな感情の連鎖が拡がっていく。オンラインでもオフラインでも、そうした多忙自慢の連鎖が、「このくらい働いて当たり前」「途中であがる(オフラインになる)のはさぼっている証拠」という空気を醸成する。「どうせならみんなでダメになろう」というわけだ。

地位のある人や、年配の方と話す機会が増えた。どの人も、現在の日本がいかにダメかについて、それなりの危機意識を持っており、そのことについて話してくれるのだが、それでもどこかに「ダメの連鎖」を感じないわけではない。「いやあ、もうどうせダメだよね、だっはっは」と。困るなあ、と思うのは、その滅びの美学を貫かれると、一緒に沈まされるのはまだ可能性のある若い世代なのだが、ということだ。

その若い世代の中にも、閉塞感は漂っている。「このままじゃダメだ」と誰もが言う。しかし30代も半ばにさしかかった同世代は、続けてこう言う。「でもいますぐには無理なんだ」。そこには、滅び行くシステムの中で、こんなものどうせいつか崩壊するという感情と、仕事としてそれを支えなければならない義務との間のジレンマがあるのだろうが、僕にはそれも、別種の「滅びの美学」にしか見えない。未来のカタストロフを待望しながら、現在を維持しようとするその矛盾した振る舞いは、どこか宗教じみている。破滅への信仰は、虐げられた人々のすがる定番の希望だからね。

そういう状況に苛立つ人々は、希望を捨てろとか絶望から出発しろとか、いや希望の話をしろとか、どれもうさんくさいから、実行可能なソリューションだけを提出しろ、と叫ぶ。僕も同意見だ。しかし、彼らがひとつだけ分かっていないことがある。ソリューションは、それが実行可能だと信じる人々に支持されなければ、やっぱり実行フェーズには乗ってこないということだ。これは「科学」と「政治」の間の微妙な関係の問題でもある。科学者がソリューションを出すだけでは支持は得られないが、政治家の言うソリューションなき希望は危険だ、という。

このあたり、専門的にはギデンズの政治理論あたりにつながる話なのだけど、僕が考えているのは、じゃあ日本で、あるいは特定の地域や領域で、「ソリューションのある希望」に人々を差し向けていくやり方は、何かあるだろうかということだ。

たとえば、紙媒体の産業規模は、年々縮小している。あるいは、関西の人口は、過去30年流出超過に陥っており、東京への集中が進んでいる。両者に共通するのは、その現状を知ってなお変化を拒む「滅びの美学」が働いていることじゃないか、と思う。確かに、産業規模や人口が拡大するのはいいことかもしれない、けれど、そのために私たちの大事なものを失うくらいなら、ジリ貧の方がましだ、という。そういう考えの人ばかりではない、と当事者たちは言うけれど、突き詰めて話をしていくと、やっぱり「変えなきゃいけないけど無理なんだ」という話が出てきてしまう。人は、ジリ貧になっても守りたいもののために生きることがあるのだ。

文化や地域性は、それを大事に思う人がコストを負担して維持していかなければならない、と考えているうちは、ジリ貧は避けられないだろう、と思う。第一次産業や出版文化、地域コミュニティに関わり、大事に思っている人ほど、なぜか最後は「みんながそれの大切さを理解して、支えていかないとダメだ」と言い出す。そう言われるほど、関心のない人は負担の要求から逃げ出そうとするし、科学的知見では「それが合理的な行動だ」としか説明できない。

ソリューションとは、それを選択するのが望ましいけれど、選択の利害関係者にとっては内的な価値合理性に抵触する道を選んでもらうようにし向けることだというのが、僕の考えだ。衰退していく第一次産業を生き残らせるためには、流通の見直しや産品のプレミアム化が避けられないが、そのことで仲買人や八百屋や魚屋が職を失うかもしれない。この問題を解くには、流通業者が転職をしやすい環境を作って、そちらの仕事を選んでもある種の「誇り」が失われないようにしてやるか、日本全体で現在の流通システムを支えられるように、たくさんの補助金をつけ、そのことに同意が得られるように、第一次産業保護に向けた啓発活動に予算をつけるか、そんな感じの選択があり得るだろう。いずれにせよ、その選択に「ポジティブな同意」を調達するところまでをソリューションと考えなければ、所詮は「机上の正解」でしかあり得ない。

とはいえ人の同意なんて簡単に調達できないわけで、じゃあほかにどういう道があるかと考えると、善意でそのシステムを支える少数の人の、まさに「善意」にレバレッジをきかせられる仕組みを作るとかじゃないかな、と思う。たとえばファンドによる資金調達。予算不足から開催期間の縮小を迫られ、そのことでさらに参加者を減らした神戸ルミナリエの場合、募金という直接の善意だけではもはや回らないのだから、それを元手に資産運用をして、善意をふくらませるというのはどうか、と思うわけだ。もちろん、そのことで「本来の意義が損なわれる」と怒る人がいるだろうことは、容易に想像できる。運用益なんて信用できるか、という声もあるだろう。「レバレッジのきいた善意」の対極にある「タニマチによるパトロネージュ」に頼る傾向の強かったこの地域では、特にそうかもしれない。

限られた善意を元手に自前でリソースを調達するか、少数の大金持ちの善意に頼るか。僕はメセナにせよタニマチにせよ、パトロンが支える何かというものを基本的に信用していない(なぜなら信頼は金で買えるから)ので、後者に頼りつつジリ貧の美学を追究するくらいなら、前者の方が「いい」選択なのじゃないかと思うけど、まあそこから先は、「おまえの言ってることが正しくても、おまえが言う限りそれは選ばない」問題が出てくるのだろう。近代合理主義の限界?最初からそんなもの、具体的な人の生きる現場では限定的なものに決まっていたのだ。

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