共感する距離

雑記

秋学期の試験も終わり、成績評価を提出すると大学職員は、一年の最大の山場である入試を前に慌ただしくなってくる。と同時に教員も、休みの間に自分の研究ができればいいのだけど、期末に向けた予算処理や、次年度の講義準備でいっぱいいっぱいというのが現実だ。僕も今年度からは継続的に講義を持つことが可能になったので、これまで以上に試験の答案の分析に力を入れている。といってもテキストマイニングをするとか、そんな高度な話ではないのだけど。

そもそも大学の講義というものは毎年生徒が入れ替わるし、これまでは教える講義も1、2年で変わっていたので、そうした分析は、教員の側にとって「こういう教え方をすると、こう誤解されるおそれがある」とか、「どこの大学に行っても、こういう答案が出てくる傾向にある」とか、そういう勘どころをつかむために行うものになる。たとえば講義で著作権について話をすると、そのテーマを選んできた答案では、「著作権違反の取り締まり強化が必要」というのが多数派になる、とか。

まあほんと人って話を聞かないのよね、というのがどこの教員も思う素直な感想だろうけど、今年も例年に違わず(そして大学も講義内容も違うにも関わらず)、春学期も秋学期も、「法律を作ってなんとかするべき」「監督省庁(機関)を設置するべき」というものか、「教育で人々の意識を変えなければ」「先進国の我々が進んで自らを犠牲にしなければ」という答案がたくさん出てきた。権力による統制でも理想論でもかまわないが、それは結論ではなく、ソリューションを設定するための目標でしょう、と思う。問題は、どんな法律なら国会を通るのか、どんな教育改革なら現場の教員が納得するのか、どんな言葉なら人々を理想に向けて邁進させられるのか、ということであるはずなのに。

とはいえ、主に理論を教えている側としては、ソリューションを出せ、さもなくば無意味だ、という話もちょっと違うかな、とは思う。最近よく勘違いしている人を見かけるけど、ソリューションとは「いまできていないこと」を解決するために考えるものであって、「実行できればうまくいくはずの理想解」に現実を合わせていくことではない。実行できなければ、それは絵に描いた餅でしかないのに、「不勉強な素人が多いから」とか「人心を惑わす似非専門家が悪いから」とか、人のせいにしだすわけだ。似非専門家にすら勝てない理想論は、どれだけ美しくても「負け犬の遠吠え」なのに。

社会学の醍醐味でもあり、教えるのが難しいところは、ある意味で「啓蒙の限界」を弁えているというか、Aさんにとって(そしてBさんにとっても)正しいことが、Bさんには死んでも納得できない、ということがあり得るということを諦めている点にある、と僕は思っている。そこでなんとしてもBさんを説得しようとする(そのうちにその選択のタイムリミットがきたとしても)か、Bさんも納得する方に選択肢を修正する(そのせいで選択の実効性が削がれたとしても)かは、人や状況によって変わるけど、Bさんという「他者」と関わらずに「現実的な解」を考えることはしない。それが社会学者の煮えきらなさや分かりにくさ、そして魅力なんじゃないかと思う。

考え出した当の本人たちがどう思っていたかは分からないが、「意図せざる結果」や「潜在的機能」「集合行為」「レイベリング」など、社会学の基礎概念には、ある人の振る舞いやそこでその人が思ったことが、社会学者から見て、どこかちぐはぐになっているところに注目するものが多い。それは一方で、「社会学者ごときにメタ視点で語る資格があんのかよ」というまっとうな批判を、他方で「それがわかったからなんだっていうの?」というあり得べき疑問を、社会学者たちに投げかけるのだけど、僕はその本質は「共感」なんじゃないかと思っている。

社会学者が現場に入る。その場で起きていることが何なのか、聞き取り調査をする。そうすると、そこで彼らが構築しているリアリティが見えてきたり、それゆえに抱えている問題に(不遜にも)「気づいてしまう」。だからこそ、現場の人々に対しては、彼らのリアリティに没入することなく、でも「分かるんだよなその気持ち」という態度で、外の人々に対しては、現場の人々が受けている誤解を正すべく、その「当事者性」を語るという形で、つまりは「限界人」として、社会学者は振る舞わなければならなくなる。数量的な調査を実施する場合だって同じだ。誰かが作ったマクロな指標だけを分析の対象にするのでない限り、調査票の設計には必ず、研究者自身がその対象について知っていることによるバイアスがかかる。確かに誘導的なワーディングの調査票や、結論ありきの仮説設計には問題があるけれど、そこで他の学問のように、手元にある道具立てで分かることだけに割り切って結論を出せないのが、社会学者なんじゃないかと。

なぜか。それを社会学なんてめんどくさい手段でわかりたいと思うくらい、社会学者がお人好しなのだからだ、と思う。いや、僕が、なのかもしれないけど、ほら、そうやって見たら、あの人もこの人も、言ってることの軸がブレても、関わり続けている対象への、ある種の「愛着」は、変わってないじゃない?

もうそういうのはやめようぜ、っていう意見もそれはそれで正しい。ただ、その結果起こるのは、政治学にも経済学にも心理学にもその他応用科学にも専門知識で劣るがゆえに社会学者が仕事をなくし、彼らが入っていた現場には、専門知識を持たないジャーナリストや実践家が、対象の感情に完全に寄り添う形で声を上げるようになるという二極化だろう。コウモリにはコウモリの誇りがある、でも、別にいいんじゃないかと思うけれど、そういう考え方がやっぱりお人好しというか、naive(間抜け)なんだろうな。

そうそう、むろんこの話は、専門科学としての社会学のオーソライズや、学術雑誌におけるピア・レビューのあり方、学会内でのコンセンサスの形成、教育方法の確立等々、学問を名乗る以上考えないといけない問題とは切り離して書いている。どちらかといえば、そのはるか手前での話なのだと思う。逆を言えばこっから先は地獄坂だよね。

自己・他者・関係 (社会学ベーシックス)
井上 俊
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