自由であれ、と看守は言った

雑記

「schola 坂本龍一 音楽の学校」がすごく面白い。もともとはcommonsmart内で公開されているプログラムのようなのだけど、中高生(小学生も!)を「生徒」として迎え、ゲストらとの鼎談やセッションも加わる豪華な構成。10数年前、「Love Love あいしてる」が始まった頃、日本のポップスを支えたミュージシャンたちをバックバンドに従えたKinki Kidsがめきめきと上達していくのを見ながら「きーっ」とか思ってた人は多かったろうけれど、それを凌ぐ贅沢さだ。

内容も、幅の広さがウリのcommonsmart版とは違い、バッハの平均律から和音、コードとその思想的背景をめぐり、ジャズ編では複雑化するビバップのコードからモード奏法、そしてフリージャズへ、という、ザ・教科書通りの展開。こうした一連の流れを、中学に上がる頃には父に聞かされていた僕にとっては、懐かしい気持ちもあり、あるいはもう少しウンチクを語りたい気持ちもあり、と、見事に「ノセられる」ものになっている。似たような気持ちの人は多いだろう。最近のマスメディアは、視聴者に、その話なら俺だって一家言あるぜ、と思わせる方がうけるのだから。

それだけ面白いからこそ、しかし思うところもある。山下洋輔が出てきてニコニコしながら、ジャズはフリーでいいんだ、さあ演奏してみよう、なんてやってる様は、ある意味で滑稽ではある。規律から解放されるためにこそフリーであろうとした60年代のカウンターカルチャーは、いまや「学校」で「生徒」に「教育」されるものになった。あそこで中高生たちが番組の進行を無視してフリーに演奏を始めたら、収録は止められるし、彼は怒られるか退場させられるかのどちらかだというのに。

もちろん、やってる方もそんなことは分かってるのだろう。生徒を交えたセッションの後に、山下と坂本が演奏するのは「My Foolish Heart」だ。あるいは、生徒の前で坂本が演奏するときには、彼はほぼ間違いなくセオリーを完全に外したフレーズを入れてくる。「ちゃんとしたものもできるんですけどね」なんて言いながら。

近年、「定番」への志向が強まってるなあと感じることがままある。「schola」もそうだし、マイケル・サンデルの「ハーバード白熱教室」もそうだ。コミュニタリアンの論客として知られたサンデルが、哲学の講義と称して、功利主義からリベラリズム、リバタリアニズムへと「ド定番」の講義を展開している。ウェブサイトに掲載されたディスカッションガイドも手が込んでいる。90年代にこの手の話を学んだ人間にとっては、何度となく繰り返した思考実験が、「面白い」と大評判だ。

しかしここでも、冒頭から彼の意図は明快だ。サンデルが仮想敵にしているのは明らかにリバタリアニズムであり、かつての論敵、リベラリズムではない。これはある意味で、コミュニタリアニズムはリベラリズムへの修正を迫るものであったという近年の解釈を裏付けるものであると同時に、彼らが依拠する前提が少しもぶれていないことを示唆している。つまり、人間は「私」になる以前に「私たち」の社会に生まれる以上、その「私たち」の持つ倫理や道徳の影響を受けるはずだ、という。

このふたつの試みの間に共通するのは、自由な主体として振る舞うことができるようになるためには、「自由であれ」と命じる契機が必要だ、ということだろう。そのこと自体はサンデル本の解説でも触れられているし、そんなに変なことは言ってないと思う。ただ僕が注目したいのは、それが日本社会の中に埋め込まれる際に生じる、ある奇妙なねじれだ。

つまりこうした「定番」への回帰を促しているのは、かつてポストモダン/前衛に属した人々なのだ。彼らは明らかに、近代的な規律から自由になる人々が多い社会を歓迎しているし、理想社会のために人々を動員するなんてとんでもない、と思っている。にもかかわらず、そのポストモダン/前衛を根拠づけるためにこそ、自由への訓練が必要になるのだ。

ポストモダニストが一斉に近代思想に先祖返りした、と言われたのは冷戦崩壊後の90年代前半だ。いわゆる「ポストモダンの左旋回」は、むろん当時の政治状況を如実に反映していたし、ヨーロッパにおいてはアメリカ流のネオコンに対抗する軸としてのカントが見直され、平和学の講義を設置する大学が増えた。しかし日本では90年代後半以降、日本は世界の中でも特殊なポストモダン状況にあるとの主張が広められ、「いまこそ近代」とはならなかった。

じゃあなぜ、現代の日本で、いまさらのように近代回帰が起きているのか。おそこにはおよそみっつの理由を見ることができる。ひとつは、ポストモダニストたちが目指した自由が、事実上達成されてしまったこと。ポストモダンは近代の価値観が強く根付いた社会では批判者としての意義を持つけれど、誰も彼らに反対しない社会では、存在の根拠を失う。僕も講義でコミュニティの哲学について教える過程で、ポストモダンとはどんな思想だったかについて触れるけれど、境界的な事例ならともかく、基本の理念に反対する学生はいない。むしろ教えなければいけないのは、近代的な価値観――人によって対応を変えるのは自己欺瞞だとか――の方だ。

ふたつめは、そうしたポストモダンの自由と、「新自由主義」との関わりが明らかになってきたこと。特に日本のポストモダンは、近代の規律から自由になる手段として消費社会を肯定し、それと随伴してきたという経緯があるから、経済的自由が市民権の根拠になるような新自由主義社会との相性がいい。ある意味でポストモダニストこそが現在の格差を肯定するロジックを広めた「戦犯」に他ならないと批判する論者もいる。こうした状況では、可能な限りモダニストに対する「国盗り」が要求されるだろう。

みっつめは、ポストモダンな現実と新自由主義化という別の現実の組み合わせから、彼らの嫌うタイプの批判者が登場したこと。それはまずもってマルクス主義であり、ついでベタな近代主義だ。前者は具体的には、「ロスジェネ」を自称する人々の労働運動であり、ITによる革命を唱える人々だ。左翼的な価値観の復権、労働運動のための広範な動員の肯定、という理念が、IT化=生産手段の変化による時代の変化、既得権の失墜=ヘゲモニー奪取というIT革命の理論に接続されるとき、ITはプロレタリアート(というかプレカリアート、あるいはマルチチュード)のものになってしまう。

他方、ポストモダニストたちは近代との比較の中でポストモダンを語っていたという点で、実際には近代の理念に足場を持っていたのだけれど、そうした足場を持たない「真のポストモダニスト」が無数に登場する。彼らは身の回りの些末な事象を取り上げ、科学的には反証不可能なロジックで、そこに「社会の変化」や「時代の象徴」を見いだしていく。これに対して、若者がメールの絵文字を使うことの意味なんてどうでもいいよバカヤローとか、若者ってなんだよ俺は使わねーぞコノヤローという人たちが、科学はポパーに立ち返るべきだと主張する。さすがにプロの社会科学者で、変数として設計できる要素による検証を経たもの以外は認めないとまで言う人は少数派だけど、ここでもポストモダニストは「戦犯」扱いだ。

こうした状況の中で、応答を迫られたポストモダニストの中でも、近代自由主義思想に立脚していた人々が、現在、ポストモダンの根拠として、近代自由主義思想や、規律化された芸術の価値について論じているというのが、僕の分析。それはもういいも悪いもなくて、講義だったら僕もそうするし、自分の作品だったら違うことをするし、という点で、自分がこれまでしてきたことと特に変わりはない。

ただ、ある種の態度決定は必要だろうなとは思う。三点挙げた理由の一点目についてはそれでいいとしても、残りの二つに対しては? まず左翼的労働運動と情報技術の親和性の高さについては、僕は『〈反転〉~』でも『サブカル~』でも、一貫してそれが彼らの目標と正反対の帰結を導く危険性を指摘してきた。また三点目については、同意する点も多いけれど、不当な、あるいは無根拠な批判が多いなとも思う。それじゃあ、対象となってるかもしれない方も、反応しにくいだろう。

また翻って見れば、ポストモダニズムの前提となる近代自由主義思想の幅の狭さも問題だ。90年代以降も、実証された出来事や、それに基づく理論は様々な進化を遂げている。そうしたものを無視して、「ド定番」だけを取り上げ、ポストモダニズム/前衛と対照させるのは、どんなにアイロニー性を認識していたとしても、やっぱり「自由であれと命ずる」ことにしかならない。現実には、一生懸命自由になろうとして、自分ってなんだと悩みだし、疲弊して、もう安定でいいです、ってなる人が、こんなにもいるのに。彼らのための言葉は、古典読解というやり方も含めて、まだ紡がれてはいない。

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学
マイケル・サンデル Michael J. Sandel
早川書房
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