時間は有限だが可能性は無限だ

雑記

35歳になった。統計上は「若者」の定義から外れる年齢ということになろうか。正直なところ若いか若くないかという感覚そのものが鈍っているので、そういわれてもあまり感慨はない。一応、今年で物書きとしてお金をいただくようになってから、つまりデビューしてから10年ということになるのだけど、歴史というか社会的な風潮の目安としてのディケイドと、自分の人生の中の10年というのは同じ物差しでは測れないわけで、こっちも「へえ」くらいの感想だったりはする。

35歳問題、という奴にも直面しそうな気配はない。自分の人生を振り返れば、なれたはずの自分、失わなくてもよかったはずの関係、今なら選ばないはずの大事な選択は、山ほど数え上げられる。けれど、もうここに至るまで何度も何度も後悔して懺悔して諦めて開き直ってまた後悔してを繰り返してきた僕にとって、「取り返しのつかないこと」が持つ重みなんて、いまさら突然増えるはずがないのだ。

おそらくこの話は、なれたはずの自分よりも今の自分の方があるべき姿なのだということを確信するために、なれなかった自分を弔い、鎮める必要から生じたものなのだと思う。けれど「リスク社会」であるところの現代においては、「ああすることもできたかもしれない」などという後悔の念は、大人になったからといって消えはしないし、減りもしない。むしろ関わる人間関係の増大とともに、より複雑な形でリスクへの対処を求められるようになり、決断と後悔を繰り返す場面の方が多くなるだろう。

一方で「できること」についてはどうだろうか。僕に限って言えば、こちらの方は「増えてきた」とシンプルに答えることができる。金銭面もそうだし、経験も積んだ。失敗しなくなったという意味じゃない。失敗が持つダメージの大きさを勘案できるようになり、それは自分の現在の手持ちの資源でどのくらい補償できるものなのか、予測できるようになったということだ。「失敗したらどうなるか分からない」というのと、「失敗したらこのくらいひどいことになる」では、後者の方が、たとえ現在失敗しつつあったとしても気分がずいぶんと楽になり、不安からくる決断の先延ばしという事態を回避することができる。

もしかすると、40歳とか50歳になったら、もう明らかに意識が変わってしまうような出来事が起きるのかもしれない。でもいまのところ、できることの量は増えていて、しかも未来にその気持ちや姿勢や「できること」の増大にブレーキがかかるようになるかもしれない、なんて思えている時点で、可能性は無限大だ。残り時間は刻一刻と減っているのだろう。けれど、その残りの時間でできることは、逆に増えている。どうしたらいいのだろうという迷いは、若い頃よりもずいぶん強くなった。

思えば僕は、ここ数年意味も分からず焦っていたのだけど、その多くは、自分自身ができるようになったことが急激に増えたことと、周囲とのギャップによって生じていたのだなと気づく。目標が達成されたことによるアノミーではない。新たに生じた目標と、そこに到達するための手段の不在というギャップから生じるアノミーだ。

僕が目指しているものが変化し、ある程度の積み重ねがないとたどり着けないようなものになっていけば、そこを一緒に目指せる人間の数は自然と減る。何に価値があると信じて、何が「高い」目標であるかが共有できない人が自分についてこないからといって恨みがましく思うのは身勝手だ。そして歳をとると、若いときには可能性が少ないが故に目標を共有できる気になっていた仲間が、それぞれの道で、それぞれの目標に向けて歩き出すので、付き合う時間を割けなくなったり、ときには利害が対立するようになったりするのだ。

簡単に言えば、歳をとることで、自分ができることは増えるけれど、その代わり仲間は減る。減っていく仲間をつなぎ止めるためには、人格的な信頼ではなく、仕事上の能力や、社会から期待されている役割を用いなければならない。馴染みだからではなく、きちんとした人だからこそ仲間が集まるのだ。かくして、人は歳をとることで「大人」になることを余儀なくされるのである。

まあこの点に関しても、そうそう人格的に信頼されるような振る舞いもしてこなかったし、「僕のこと気にくわないだろうけど、でも無視できないでしょ?」という嫌らしいアピールをして生きてきたわけで、いまさら「大人」なんか目指さなくてもいいのかもしれない。それでも、単に片意地を張って子どもすることと、自分がどういう理由で、なぜいまの状況にいるのかを理解した上で突っ張るのとではずいぶん違うはずだ。たぶん僕は、何も変わらないけれど、何も変わらないために何かを変えた。そういう35歳のスタートなのだと思う。

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