普通に生きていれば、普通に幸せになれるはずだ、という考え方への信頼は、「普通でない生き方」への恐怖を、裏面に持っている。少しでもはみ出してしまったらもう未来はない、あるいは、普通の人生ではあり得ないくらいの苦労が待っているはずだ、という。
だけれども、そうした「転落」のきっかけは、今ではどこにでも見られる。病気だとか、倒産だとか。ちょっとしたきっかけでハードモードの人生が始まる状況を指して「『溜め』のない社会」なんて言い方もする。つまりバッファというか、普通の人生の外側への緩衝地帯がないということだ。
「震災」という出来事は、そんなバッファのない社会で、色んな人々を「普通の外」に放り出してしまった。特に子どもたちは、あるのが当たり前だったことが、大なり小なり失われた経験を、自分の思春期の一部にしなければならなくなってしまった。授業でプールには入れなかったってレベルから、学校と、学校生活がなくなってしまったという人まで。
劇場版『ヒミズ』の背後には、そういったテーマが流れている。そう聞くと、古谷実の原作を知っている人は「あれっ?」と思うかもしれない。そもそも同作に震災の話は出てこないし、決してハッピーエンドではない作品なのだから、あまり希望のある未来は描けなそうだ。
実は映画の『ヒミズ』では、原作の設定に大幅な変更が加えられている。舞台は震災後の日本になり、原作では中学生だった夜野をはじめとして、住田の周囲には、震災で仕事を失ったホームレスたちが住んでいることになっている。この作品に出てくる主要な子どもは、住田とヒロインの茶沢さんだけだ。
そして、住田の抱えている問題も微妙に変化している。原作においては「自分は普通である」ということにこだわり続けているにもかかわらず、家庭環境も、ありえない怪物が見えるということも含めて、「普通じゃない」。住田にとって普通であることは、自らを死に追い込む宿命から逃れるための重要な条件なのだが、それが失われることで、住田は自死することになったわけだ。
だが映画で住田が求めているのは、普通であることではなく、普通でなくなった人生の中でも「立派な大人になる」ことだ。この違いは、作品の持つ意味や解釈を根本的に変えてしまうくらい大きな変更だ。普通に生きるためには自意識の問題を解決する必要があるが、立派な大人になるためには、社会的に認められる必要があるからだ。
この違いが分かれば、ラストシーンがどのようになるのかということも自然と導けると思うのだが、ではそもそもなぜそうした変更を行う必要があったのか。それはホームレスの夜野が盗んだ金で住田の借金を返済しようとする際にヤクザに対して言った言葉、住田には未来があるから、という点に集約されている。ケチのついてしまった人生を、普通でないという理由だけで終わらせてしまってはならない。そういうメッセージが込められているのだ。
おそらく震災後のモードという意味では、この変更はとても倫理的なものだと思う。しかし作品として見た場合には、さまざまな点で不整合や疑問の残る演出になったと言わざるを得ない。一番大きいのは、「悪い奴」を探して夜の街を住田がうろつき回るという点。ここは原作通り、住田は「悪い奴」を見つけられずにボートハウスに帰ってくるのだが、震災後の日本でこういう状況に置かれた人なら、真っ先に東電に殴り込んでいるはずだ。
妄想するなら、そこで住田は、脱原発を訴える団体の人たちに迎えられ、自分の社会的使命を感じ、自首してきちんと罪を償ってからまた運動に参加しよう、なんて思うかもしれない。それは「立派な大人」のすることだし、悪いことでもなんでもない。けれど、こうなってしまうと『ヒミズ』という作品の持つ意味が根本から変わってしまう。さすがにそこまでではないものの、でも僕が見る限りこの映画版の結末は、ほとんどそういう話になっていると思う。それなら別に『ヒミズ』でやらなくてもよかったんじゃないか、と思うのだ。
このズレは結局のところ、「普通でない」ということが、住田の自意識の問題ではなく、親に捨てられたという社会的環境によって規定されていることから生じている。そしてそれは、作品が連載されていた10年前から今の社会への変化でもある。自己責任の時代から、社会問題の時代へ。自己責任原則に基づいて自意識を変えるのではなく、社会を変えることで今の自分の問題も解決されるのだという認識へ。
繰り返すけど、それはもちろんいいことなのだ。でも、それって本当に子どもたちにとって意味のあることなのだろうか。
自意識から社会問題へとフォーカスが変化したことで一番変わったのは、ラスト近くで自首を進める茶沢さんの言動が、ただの道徳的な優等生みたいになってしまったことだ。もちろんその発言を裏打ちするために、茶沢さんを取り巻く環境の描写も加えられている。けれどやっぱり、子どもが子どもに対して、普通でないからといって絶望せずに生きていこうとか説教するのは気持ち悪いし、「結婚してしまおう」とか言われてもそれってただの現実じゃないか、と思うのだ。
映画版の『ヒミズ』で描かれたことは、否応なしに普通でない状況に放り込まれてしまった子どもたちではなく、大人の側が子どもたちに用意してあげるべきものなのだ。その主張は正しいと思うけれど、それは『ヒミズ』という作品を使って伝えるべきものじゃなかった。絶望する子はいなくなってないし、それは震災と無関係にも生じている。古谷作品には、そういう子たちを引きずりこむ力があると思うし、僕が好きなのは、そういう『ヒミズ』なのだ。