ソーシャル化で失われるモノ?

雑記

これは僕の話じゃなくて一般的な傾向として、「ソーシャル化」の流れを許せない人というのがいる。この場合のソーシャル化とは、さまざまなコンテンツやデバイスがソーシャルメディアと連携したものになるとか、オンラインでのコミュニケーションと統合されていくとかそういうこと。ゲームの世界なんかではソーシャル批判が根強くて……なんてことを考えていたらこんなエントリも飛び出した。

「こっちは人とコミュニケーションしたくなくてゲームの世界に来てんのに、そこでも人間関係を求められてウザい」って文句は割と以前からあって、僕もそっち派ではある。でもこれってすごく示唆的で、早くからユーザーたちは、ソーシャル化ってことはつまりオンラインの世界が現実と同じものになる(そのことによって最大の魅力を失う)ということを感じ取っていたわけだ。

しかし、それで失われるものってなんだろう、とも思う。一応日本の社会学で語られてきたことの流れを押さえておくと、90年代に始まるポケベルやケータイのコミュニケーションは、特定の目標(相手の説得など)を持ったものというよりは、それ自体が目的であるようなもの(コンサマトリー)だった。そして次第にコミュニケーションの優越ゆえに語られている内容と語ることの目的の乖離に注目が集まるようになり、「ネタ的コミュニケーション」だとか「つながりの社会性」だとかって概念が出てくる。それを受けて、コミュニケーション(つながり)が主でコンテンツが従っていうような、そういうコンテンツ観での分析がなされるようになってきた。

一方で、こうした「つながり志向」は90年代まではむしろ女性の間で見られるもので、男性はむしろオブジェクト=モノそのものへの志向が強い傾向にある、という主張もあった。アイドルファンでいえば、男性のファンがアイドル自身の容姿や振る舞い、楽曲を対象に消費活動を行うのに対して、女性のアイドルファンはコンサート会場やファン同士のコミュニケーションを主たる活動にする、みたいな感じ。女性が女性アイドルを追っかけたり、アイドルビジネスの幅が広がって多様化したりといったことが見られる現在からすると単純化されすぎてるように思えるかもしれないけど、まあ「モノ志向vsつながり志向」っていう対立軸は、一応共通了解としてあったんじゃないかと思う。

その前提に立てば、ソーシャル化への反発は、モノのもつ一種のアウラが失われていくことへの反発という側面があるかもしれない。「人とコミュニケーションしたくない」ということと「ゲームで人とコミュニケーションしたくない」ということは、似ているようで結構違う。ゲームのソーシャル化によって「そんなの(僕の愛した)ゲームじゃない」という感情を刺激されているっていうのが実は大きいんじゃないか。

ということは今後、強いモノ志向のある商品がソーシャル化されていく際には、似たような、あるいはより激烈な反発が生じる可能性があるということだ。その代表格はおそらく自動車だろう。カーナビとスマホが連動して、すれ違った車と通信できるとか、Facebookのフレンドが近くにいるとアラートが出るとか。まあどういう展開があるのか分からないけど、ここでも「そんなの俺の愛したクルマじゃない」「あいつらはクルマの魅力を分かってない」という人がたくさん出てきそうだ。

で、それを個人の気持ちの面から見れば、気持ちは分かりますよ尊重しますよ、なのだけど、どんなものでも商品である以上、ソーシャル化による恩恵があれば進めるし、なければやめるという話でしかない。ではそこに恩恵はあるのか。ソーシャル化そのものにはないけど、どうやら消費参入の敷居を下げるという効果はありそうだ、というのが最近考えていること。いわゆる「カジュアルユーザー」的な人たちにまで間口を広げられるよねという奴だ。むろんそのことによって従来のユーザーの反発を買うのだけど、それはまあ「懐古厨乙」とかでいいじゃないっていう話なのかもしれない。

実際、モノ志向がどれだけ日本国内の市場として今後も魅力的なあり方なのかと問われると、微妙というのが正直なところだろう。モノの輝きは、たとえそれが手間のかかるものであったとしても時代拘束的な部分があって、おそらくは経済の成長期とリンクしている。でも、「超合金」っていったい何と何の合金なのかも分からないような響きにわくわくしていた昭和の子供たちは年をとり、モノというよりは通信のためのハコとしてのiPhoneなんかが売れる時代になった。モノがいらないって意味じゃない。モノの意味すらも変わってしまったのだ(たぶん。iPhoneの筐体は美しいけど、それだったらなんでみんな皮脂で汚れるシリコンのカバーをつけるのか)。

求められているのは、ソーシャル化した中でも魅力を失わないモノとは何かを追求することであって、そういう意味でのパラダイム=ルールの転換だ。コンテンツさえあればガワはなんでもいいなんてことはない。というかコンテンツにだってガワの重要性はある。コミュニケーションのネタになればなんでもいいわけではなくて、アイドルだろうがケータイだろうがクルマだろうが、ソーシャル化に堪えるデザイン、造形、意匠の魅力はある。そこを見過ごすと、話が「モノが輝いていた昭和」か「すべてがネタのソーシャルメディア」かという不毛な対立になってしまう。そこを追求するのが、「どうせネタなんだからパクれパクれ」ってなビジネスモデルの横行に対する最大の抵抗になるんじゃないのかな、と思う。

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