ルート分岐なんて存在しない

雑記

36歳ともなると、干支も三周目に入った立派なアラフォーであり、誕生日に人生を振り返るとかそんな年齢ではないのかもしれない。実際、過去のことを振り返ってくよくよと後悔する真夜中なんて時間もなくなりつつあるし、自分のことより他人のことを考えて行動することが増えたと思う。人に配慮できるようになったとかじゃなくて、関わる人の数が増えただけなんだけど。

「結合定量の法則」とはよくいったもので、関わる人の数が増えれば、一人あたまでかけられる時間は減る。それは自分についても例外ではない。自分について考える時間が減れば、あら探しをしたり、自己卑下したりする時間から減る。要するに無駄に自己肯定感が増す。大人でいるということだけでついて回る責任や人付き合いは、段々と人を自己中にしていく。

僕の場合はさらに、人生の後輩に当たる学生たちと接する時間が主になってしまったから始末が悪い。彼らを社会に送り出す段になると、人間的には彼らの方が大人でも、単に社会に出ている時間が長いというだけで偉そうなことが言えてしまうし、小言の一つも言いたくなる振る舞いの方が目についてしまう。

ただ、そうした尊大さを戒めながら見回してみれば、人の人生というものは実に豊かだ。長いこと見ていたつもりの学生たちだって、大学という枠組みを外してしまえば本当に多様で、言い換えればバラバラだ。頭では分かっていたつもりだったけど、人との付き合いは、長い糸のほんの一瞬のよりあいでしかないのだと気づかされる。相手について分かっていたことはごく一面的なものでしかなく、別の関係の中では同じ出来事がまったく逆の見られ方をしている。

ソーシャルメディアだとか、あるいはケータイのメールでもいいのだけど、ログとして残されたコミュニケーションは、そうしたことを容易に可視化する。あるウインドウで話していたことと別のウインドウで話していたことは大抵矛盾している。あの人から聞いた話を、別の人の噂話が否定する。個別の場面や問題に対して誠実であろうとすれば、自分自身に誠実であることがますます難しくなっていくのだ。

しかしだからこそ、そんな風な生き方は自由だし楽だなとも思う。自分自身に対して首尾一貫した姿勢を持ち、その観点から別の人生を評価し、お説教を垂れるのがいい大人のあり方なのかもしれないけど、それは結局、決して飛び移ることのできない異なる人生に対する防衛機制なんじゃないか。

この数年、見ようとも思っていなかった他人の人生に、部分的ではあれ介入するようになって気づいたのは、結局のところ他人の人生に責任なんか取れないってことであり、それは自分に対しても同じってことだ。もちろん責任はある、けれども、人は自分の力ではどうしようもないくらい多様な関係に絡め取られていて、場面場面での選択が人生のルート分岐を決定するなんて、ゲームみたいに単純にはいかないのだ。

今年は僕にとって、26歳で最初の本を出してから10年という節目に当たる。当時から「あんな柔らかい本を出したらもう大学には就職できない」とも「もう単著があるんだから将来は安泰でしょ」とも言われた。どちらの意見にも賛成はできなかったし、実際そこからの10年、ほぼ3年おきくらいにそれまでのルールがまったく変わってしまうような転機があった。だから若い子たちを見ていても、僕の彼らを見て下した評価だって、ゲームのルールが変わってしまえば無効になることはあり得ると思うし、1年、2年の単位で選べることにそんなに固執しなくてもいいよ、って言ってあげたくなる。

そうした焦りのなさみたいなものは昔からあったのだけど、どちらかといえば「どうせ人って死ぬし」くらいの、ちょっと引いた諦観に近いものだったのかなと思う。けれどこの数年でようやく、目の前の出来事に誠実でありつつ、そのルールが根底からひっくり返っても大丈夫なくらいのしなやかさをもって生きることを肯定的にとらえられるようになった気がする。いまできなかったことが、トータルに考えたら後で何かをなすための条件になるかもしれない。ジョブズの言う点と線の話が示すのは、人生のルートなんてはじめから存在してない、だからこそ後付けの道筋しか自分を証明するものはないってことなんじゃないか。

「どうせ自分で選べることなんてそうはない」というのと、「選べないけれど、だからいいんだ」では、同じように日々の問題に向き合っていても、毎日の見え方はまったく違う。後悔や失敗がいつか何かをなすための条件になるなら、その日までとりあえず、さしあたりの姿勢で歩いていくだけだ。そんなわけで、とりま今年もハッピーバースデー俺。

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