37歳。もはや「40手前」という大雑把なくくりでしか説明のできない歳になって、さて何を思うということもないというのが正直なところだったりする。お祝いの言葉やプレゼントをいただく機会も人も増えたけど、それに見合うだけの何かが自分にあるのかと言われれば心許ない。なのに、たぶん年下の世代が増えてきたからなんだけど、この年齢には当然このようなことを期待できるとか、それに応えられて当然だという視線を陰に陽に感じて、その辺のギャップは深まるばかりだったりする。
一方で、経験した方の人生はまるでループゲームを眺めているようだ。学校という場所が特殊なんだろうけど、めざましく成長した学生たちを送り出し、彼らの人生が社会人に最適化されていくのをぼんやりと眺めながら、自分だけがスタート地点に巻き戻されていく。一人ひとりの人生は多様で、ひとつとして同じものはないはずなのに、色んなことを経験の枠組みで処理して理解してしまわないようにするのは、今の僕にはすごく大変なのだ。
その中身を探ってみればなんのことはない、僕は自分が成長できていないのじゃないかと恐れているのだ。だから小生意気な若い子たちを見ながら、はいはい若いねーって自分を年長であるというだけで優位に立たせようとするし、そんなつまんない自己満足で自分のプライドを保とうとしている。意地になってこんなこともできるぜ、あんなことだって知ってるぜって虚勢を張ってみるけど、それが相手にとって必要なことかどうかが大事でしょ、という基本が抜けてたりする。余裕、ないんだなと思う。
もちろん知識としては自分の世代がそろそろ中間管理職として組織の主軸になるはたらきを期待されるってことも、それが上の世代に対しても下の世代に対してもある種の距離感をおぼえるアイデンティティ・クライシスの時期であることは知っている。だが困ったことに、現状の職場環境にも、僕自身に期待されていることも、僕の能力を大幅に超えなければ対応不可能な課題というのは、あまりなかったりもする。危機感をおぼえずに安穏とすることは避けたいけれど、無理くり重箱の隅をつつくような課題を見つけ出して空回りするのも避けたい、となると、どんな速度で生きたものか悩みは尽きない。
そう、速度が問題なのだ。鈴木いづみが言ったように、人生の絶対量ははじめから決まっているのかもしれない。しかしたとえそうでなかったとしても、速度が問題なのだ。僕たちが社会の中で生きている限り、ある環境に必要な速度を超えて能力を発揮することも、その逆も、それが選択したことであろうとなかろうと、一種の「負荷」を生み出す。その負荷に耐えることをよしとしてきた僕の人生は、要はこれまで加速の一途だった。この歳になっていよいよ推進力が尽きるかと思いきやそんなことはないのだけど、周囲を振り落としてまで加速するべきかどうかの判断を迫られるようになったのだなと気付く。
ブログを書けなくなったのも、その辺に理由があるのかもしれない。誰かに何かを伝えるとき、このエントリのように思いつくままに速度を上げていくのではなく、それが誰かにとってどのような意味を持つのかを意識して、速度調整しながらでしか主張というものを組み立てられなくなっているのかなと思う。もちろんそれが本当にできているかどうかは微妙だけど、歩幅を合わせたり、先導したり後ろから煽ったりしてようやくできることの方に興味がわいてきたのだろう。
まあそれは余裕があるということでもあるし、まだまだ無茶はできる、もっと速度を上げることもできるという自信も失われてはいない。年々、誕生日をただの「通過点」としか感じられなくなって、特別な思いを持つことが少なくなっているのは、今の僕にとってはいい方向の進化なんじゃないかと思う。