長いことブログを更新する余裕とモチベーションがなかったのだけど、少し思うところがあって再開してみようと思う。というのもこの春くらいからいくつかマーケティング絡みの仕事をして、その流れで考えたことが色々あったのと、同時期に書いていた本がめでたく夏頃には刊行できそう(ステマですよ奥さん)だからだ。
大きなところで言うと、3月15日に開催された放送文化研究所のシンポジウム「ソーシャルパワーがテレビを変える」。放文研の調査データの紹介と、それをもとにしたパネリストの議論が中心の回だったのだけど、やっぱりもにょもにょとした印象はぬぐえなかった。
データそのものは面白い。実際の番組で用いられたソーシャルメディアとの連動企画に参加した人がどのくらいいたのかといった数字は、この分野に関心のある人ならまず知りたいところだろう。で、ふたを開けてみると、アクティブに参加するのはおおむね視聴率に対して1割、裾野をとって3割といった感じ。これを多いとするか少ないとするかということ自体目標設定によって変わるけれど、そもそもその目標ってなんなの?ということが不明確なケースも見られる気がした。
おそらくはリアルタイムでの視聴者の増加か、番組自体のPRというところが目標にされるのだろうけど、なんとなくこの1割がどんな人なのかという辺りに大きな課題がありそうな気がしている。一緒に登壇していたニコニコの杉本さんは、この層はおおむね40代以下であり、高齢者の人口が多いせいでアクティブ層が相対的に小さなボリュームになっているという世代効果を強調していたけど、僕の意見はそれよりは悲観的だ。
たとえば、あんなにソーシャルメディアに頻繁に書き込みをしていた学生が、就職したとたんに何も書かなくなる。別垢やLINEでごく親しい人との連絡だけに特化するようになる。帰宅は遅い、朝は早い。ゴールデンタイムにスマホを片手にキャンペーンサイトでゲームをして、話題をツイッターでシェア?そもそも僕らのワークスタイルは、録画してまで見たい番組を、自分の都合で見られれば精一杯のものになりつつあるんじゃないのか?
一生懸命知恵を絞って、そういう人たちがソーシャルとテレビの連携(関係ないけど通信と放送の融合だか連携だかって話はどこ行ったの)に参加してくれるように努力するというのは、ビジネス上の挑戦としては素晴らしい。けれど普通に考えれば、3割のレッドオーシャンじゃなくて、7割のブルーオーシャンで勝負すべきじゃない?と思うわけだ。
では7割の人たちはどんな視聴をしていて、それはソーシャル化でどう変わるのか。ここから先は単なる仮説をもとにしたモデルだし、いますぐ役に立つアイディアが聞きたい人はどうぞ回れ右、な話なのだけど、以前から僕は、テレビ視聴のソーシャル化によって7割の人間が「孤独なお茶の間」に取り残されているんじゃないかと感じている。
テレビに関する研究が教えてくれるのは、それが受け手に強い同質性の感覚を植え付けるメディアだったということだ。たとえばジョシュア・メイロウィッツは『場所感の喪失』の中で、テレビの普及が公民権運動や学生運動に与えた影響について言及している。どちらも、「テレビの中の世界」が「この現実」より優先度の高いものだと認知されたことから生じていたのではないか、というのがそこでの見立てだ。
ただ、そのような同質性の感覚の背景にあったのは、テレビの力というよりは人の力だったんじゃないかという風に思う。代表的な議論は、ラザースフェルドの「コミュニケーションの二段の流れ」というモデルだ。これは、メディアの影響力は人々に直接届くのではなく、オピニオン・リーダーと呼ばれる影響力の強い人を介して周囲に波及するのだという話なのだけど、おそらくお茶の間においても、こうしたオピニオン・リーダーの存在は大きかったのではないか。
たとえば野球中継を見ていても、お茶の間ではお父さんの「ここは交代だろう!」「あんなところに投げたら打たれるに決まってるだろう!」といったヤジが飛ぶ。その中身が正しいかどうかはともかく、一緒にテレビを見ていた子どもは、そこでそのゲームの見方を学ぶ。つまりお父さんはオピニオン・リーダーとして、テレビ番組の解釈権を握っていたわけだ。
テレビのソーシャル化とは、テレビ番組の話題をネットに拡散させるという意味では、この「解釈権」を持つ人々をネットに抱えて、オピニオン・リーダーとフォロワーの関係をオンライン化しようという話なのだと思う。そうしたことは実際にも起こっているし、ステマ的な問題も含め、今後も重要な課題になるだろう。
ところがいまお茶の間で解釈権=チャンネル権を握っているのは高齢者。この人たちの中にもテレビに馴染みのある人は多いけれど、若い人たちの事情にそれほど詳しいわけではないし、関心事はむしろ自分たちの今後。いきおいテレビコンテンツは、まったく分からない人向けに字幕を出しまくり、同じシーンをCM前後で繰り返し放送して、なんとか「分かりやすい」ものにしなければならなくなる。一方で新たな解釈権を握った世代は、そのチャンネル権をテレビ局に対して行使し、フォロワー向けのつまらない番組から離れていく。こうしてテレビの二極化が起きる。
もちろん、この変化はネットやソーシャルメディアの登場で生じたものじゃない。彼ら彼女らの息子娘が家を出て独立したときから、その変化は始まっていたのだ。ソーシャルの外側にいる7割の人たちというのは、きっとこういう「孤独なお茶の間」でえんえんとテレビを見ているような人たちだ。そしてこの人たちを相手にするということは、テレビのソーシャル化とはまったく違う意味で、テレビに再び「社会性」を取り戻すということでもある。というか、街頭テレビにせよお茶の間モデルにせよ、テレビというのはそもそも社会的に見られてナンボ、そこで初めて影響力を発揮するものだったというのが、これまでの研究から見えてくることのはずだ。だとすれば、この人たちを1人でお茶の間に貼り付けている限り、テレビはこの人たちと一緒に消えていくしかない。
もちろんそれで構わないというならそれでもいいのだけど、単なるビジネスの問題としても、自前でソーシャルのプラットフォームを用意するノウハウも予算もない地方局やCSの番組なんかができることって、むしろ7割の市場からうまく収益を得ることなんじゃないかという気がするわけだ。んじゃそれってなんなの、というところでだいぶ長くなったので、続きは次回に。
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