「うちらの世界」論の系譜

雑記

どうも夏になるとツイッターで不用意なことを書く人が増えるのか、ネット憲兵のみなさまが活動しやすくなるのか、この夏はバイト先で不適切な行為に及んだ若者の問題がブームになっている。その数が増えたように見えるのは単に注目を集めているからで、いつぞやの飲酒・喫煙告白が目立ってたときと同じだと思うけど、じゃあどうしてそんなことを書いてしまうのかという点についても、あまり話に進展はないように思える。

彼らの社会は「うちら」で完結する。「うちら」の外側はよくわかんないものである。よくわかんないものが干渉してくれば反発する。そして主観的には彼らは「なにも悪いことはしていない」。彼らにとって「悪いこと」とは明確な脱法行為のみである。あるいは「うちら」の結束を乱す行為だ。なにか、よくないことをしでかして、叱られたとする。しかし罰せられない。それは許されているということだ。明確な処罰が下されない限りは許されている。(「うちら」の世界 – 24時間残念営業

店長がこういう風に書くとき、即座に思い出すのは、宮台真司が言ってた「仲間以外はみな風景」というやつだ。20年くらい前の話である。当時、学生だった僕にはこの言葉はすごくしっくりくるものだったけど、いまの僕は40手前。当時生まれた子どもたちは、いま高校生くらいだろう。そう考えれば、「うちら論」そのものはそんなに新しい話ではない(ちなみに宮台氏が登場した朝ナマで、彼はスタジオの女子高生たちに「うちらはそんなんじゃない」と言い返され、それを見た中森明夫氏が彼女たちを「ウチラー」なんて名付けている)。

でまあ、これっておバカな高校生の話ですよね、という話になるかどうかが分かれ道なのだけど、それって普遍的なことじゃない?というツッコミもあるわけで。

この手の「低学歴の人間は自分たちの世界で完結」みたいな論って、一見納得しやすいけど、先に述べたように同様の構図で企業の不祥事は起こり、しかもそっちの方が社会的な影響も大きかったりするし、偏差値の高い大学の学生が次々とネットでやらかしている訳で、学歴の問題にしちゃうと、いろいろなものを見落とすよなーと思った次第。(「自分たちの世界だけで完結する」を学歴問題にしないほうがいい : ARTIFACT ―人工事実―

学歴ってそういう意味で言ってんじゃねーよ裏読めよという意見もあるけど、相手がみんな自分のコンテクストを読んでくれるって期待しない方が議論は広がると思うので、とりあえずベタに拾う。実際、こうしたところまで視野を広げれば、これは古典的な「内集団」と「外集団」の理論であり、内集団における結束を強めるための同調圧力であり、集団への忠誠を示すために、外集団では禁止される出来事にあえて挑戦するというイニシエーションの問題で、つまりは人間社会であればどこでもありますよねそういう話、ということでしかない。そうした逸脱行動が若者に顕著に見られるのは、彼らがまだほんとうの意味で社会に参加していないからであり、社会を防衛する側にいないからだ、と、古いタイプの社会学の人ならそう考えたろう。

もちろん、そうした若者たちもいずれは社会に参加していくのだという想定が成り立たなくなってきたことが、60年代以降の若者研究の背景にあるし、社会に参加できない、社会に包摂されない人々という意味では、この問題は階層と関係したデジタル・ディバイドとして理解することもできるだろう。

ただまあ、研究者ではない多くの人にとってこの問題は、自分の部下とか後輩にこういう人が入ってくるかどうかというリスク管理の面でしか興味を持たれてないかもしれない。宮台氏からして既に、「そんな若者は都会のごく一部の話だ」とか批判されていたわけだけれど、じゃあ結局のところそういう人はどのくらいいるのか?

NHK放送文化研究所の2012年の調査によると、インターネット上の危険回避行動として「名前や住所などの個人情報を書き込まない」とした人は中学生で68%、高校生で72%。多いと見るか少ないと見るか微妙なところだけど、ネット上に自分の情報を書くことについてセンシティブな層が7割程度で、残りの3割の一部にノーガードな人がいるということは確かだろう。

ただ、この点については色々と解釈のしようはある。木村忠正氏は別の国際比較のデータから、日本人は海外の人と比べて、自分が個人として特定される情報がネットに流出することを極端に恐れる傾向にある一方で、自分が特定されない範囲ではSNSにプライベートな日記をたくさん書いてしまうという奇妙な特徴があることを指摘している。何がプライベートで何がパブリックかということじたい、所与のものではないのかもしれない。(ここんとこ、月末に出る新刊でもちょっと触れてます)

ちなみにこのNHKの調査のデータは色々面白くて、本にまとまったものをぜひ読んで欲しいのだけど、たとえばソーシャルメディアと「内輪」の感覚について言えば、ネットだけで面識がない知り合いがいるかという質問に「いない」と答えたのが中学生で78%、高校生で67%。多くの人はソーシャルメディアを内輪で利用している一方、ネット上の人間関係に対しては、プラスの評価として「面と向かって言いにくいことも伝えやすい」、マイナスの評価として「人間関係のトラブルが起きやすい」ということが挙げられている。

さらに興味深いのは、若者たちの悩み相談の相手として「友だち」が減り、「お母さん」が上昇していることだ。原田曜平氏はその原因を、バブル以降、親が子どもに自分の生き方を押し付けられなくなったことで親子の距離が縮まったとし、古市憲寿氏は、学校の悩み、友だちの悩みが中心なのだから学校以外で相談するのは自然なこと、と述べている。前回の調査からずいぶん開いているので簡単に言えないが、ソーシャルメディアの内輪化による友だちからの圧力の増加を、ここに見出すことができるかもしれない。

20130808-01

悩み事の相談相手-中学生(「友だち」「お母さん」)
出典:『NHK 中学生・高校生の生活と意識調査2012』p82

というのもこの10年くらいの若者研究の中では、若者たちのコミュニケーションが内輪化すると同時に、「キャラ」という差異化要因によって序列化されるものになっていることがたびたび指摘されており、一見仲が良いように思えても、実は強いプレッシャーにさらされているのではないかと考えられているからだ。

というわけで駆け足になるけど、研究という面で今回の騒動の背景と、若者およびネットとの関係で考えられる要因としては以下のとおり。

(1) 内集団の結束を強めるために逸脱行動に出るという一般的な心理
(2) 社会的な包摂の力が弱まり、社会全体への想像力が欠如した層の増加
(3) 若者のコミュニケーションの内輪化と差異化圧力がもたらす「内輪受け」行動

個人的には特に3番の話が気になってはいて、その理屈については掘りようがあると思ってて、春からずっとブログに書かなきゃと思ってて放置してるのだけど、流れでなんとか次あたりに書けないかなあ、というところでこちらからは以上です。

ウェブ社会のゆくえ―<多孔化>した現実のなかで (NHKブックス No.1207)” style=”border: none;width: 110px;” /></a></div>
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鈴木 謙介
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