この週末は、読書会サークル「猫町倶楽部」のイベントのために上京。もともとはmixiのコミュニティだったものが、全国に数千人の会員を持ち、100人越えのイベントも当たり前というところまで成長したもの。参加者の雰囲気もとてもよくて、人文書を読むのも初めてという人もいる中で、今回の課題書だった拙著『ウェブ社会のゆくえ』を読み込んだ上でたくさんの人に参加していただいたので、著者としてもすごく嬉しい会だった。
ところで、そんな会でもディープな質問というのは出るわけで、割に多かったのは「なぜ後半で共同体の話をする必要があったのか」というものだった。ぼんやりと予感はしていたものの、思った以上にこの本、「ばらばらになる社会を再生させるためには大きな共同体が必要だ」という本として読まれていたらしい。
こういう風に受け取った上で違和感を表明する(人によっては怒り出す)のは、共同体というもののイメージの差があるのだろうと思う。というのも、日本においてもある世代以上の人にとって共同体とは具体的に郷里の人間関係やそのしがらみのことであり、個人の自由を奪い、多様な意見を圧殺するものだったからだ。そういうものから離れて自由な暮らしを手に入れてきた人たちにとって共同体に関する理論とは、共同体がいかに危険なものかを証明するためのものであって、あくまで注意を要するもののはずだ。だから、僕のような世代の人間が「共同体」なんて言葉を持ち出すと、なんて安易な発想なんだ、共同体なんてそんないいものじゃない、と言いたくなる。
で、まず僕自身は「そんなことは言ってない」(というのを発売前からイベントなんかでも言ってきた)。むしろそこで主張しているのは、もっと小さな共同体の話だからだ。具体的にはマンションの住民組合とか学校区単位、ネットで知り合った数百人規模の趣味のサークルとか。こうしたものを一過性の盛り上がりにしないためにはどうすればいいか、という話が、そこで言いたかったことの中心だ。だから「盛り上げ方」と「維持の仕方」の両方の話が必要になるわけだ。
この話には前提となる文脈がみっつある。ひとつは、社会学においては近代社会を、前近代の共同体の絆から解き放たれる社会だと見なす。そこで問題になるのは、共同体の寄る辺を失った人が、一方で「国家」という大いなる共同体に、他方で会社や家族といった小さな共同体に吸収されることで安心しようとする動きだ。これが行き過ぎるとファシズムにつながるし、そうでなくても、小さく閉じた世界の利害だけに関心をもち、大きなことはお任せでいいという政治的態度を生み出す土壌となる。
ふたつ目は、その個人を包摂してきた国家や会社、家族の力が弱くなっていることだ。全体として人の流動性が上昇し、目の前にいる人と来年も一緒にいるかどうかが分からなくなっている。こういう流動性への予期(流動性期待)が高まると、相手への深いコミットメントが避けられるようになり、予言の自己成就的に流動性が上昇してしまう。という状況が日常的に予測されるような日々を生きる世代にとって、共同体はもはや個人の自由を抑圧する悪しきものではなく、寄る辺なき自らの生活をどこかにつなぎ止める繋留点として意識される。
みっつ目は、社会学の研究の中で、これまでサブカルチャーに対しては、男性が対象志向(好きなもののことだけに興味を持つ)、女性が関係志向(好きなものを通じて他者とつながる)が強いと考えられていたのに対して、2000年代以降、男性にも関係志向の側面が顕著に見られるようになってきたということだ。その要因にはいろんなことが考えられるけれど、一部には今回の本で書いたようなウェブのトレンドというものもあるだろう。こうした傾向を背景に、血縁、社縁、地縁に代わる第四の縁としての「趣味縁」が注目されるようになっている。
以上の話をふまえると、僕がここで「共同体」と呼んでいるものは、人々の個性を圧殺するものというよりは、社会学が理想としてきた「近代化した社会の中で個人が自発的に取り結ぶ、利害を超えた関係性」のことだというのが分かるはずだ。このレベルで関心を持ってもらえるかどうかすら刊行前には不安だったのだけど、結果的にそこまで読まれてありがたい限りだけどね。
ちなみにこの問題の他にも、猫町倶楽部の運営って、そういう意味でコミュニティの実践例だなあと思ったとか、この本は原理論を扱ってるんでそこまで話を展開してないけど、自分の実践の中では教育の問題と深く結びついてるんだよとか、これからの情報技術のトレンドってね、みたいな話もしてて楽しかったのだけど、そちらは機会があればまたいずれ。
河出書房新社
売り上げランキング: 68,572