うろ覚えの”J”ポップ時評 第1回(from『エクス・ポ』第一期)

連載

引っ越しのために部屋を整理していたら、佐々木敦さんの『エクス・ポ』第一期で連載していた「うろ覚えの”J”ポップ時評(”J”は丸囲いにJ)」が出てきて、懐かしいと同時にその後の色んな議論を先取りしているなあと思うことがあって、最近なかなかこういう話を自由に書くこともできないので、過去の遺産で申し訳ないけど、ここに再掲したいと思う。

確か佐々木さんからの依頼はもっとライトなJ-POP批評だったはずなのだけど、そもそも「最近こんな曲がアツいよねー」みたいなことを思いつけないというか、オチの見えない連載とかできないたちなので、結局ごりごりの原稿になってしまったのだけど、ギャル、ギャル男系J-POPから美少女ゲームまでをカバーしつつ、秋葉原連続殺傷事件直前のアキバの空気にも触れたこの連載は、自分の中でも時代とのシンクロ率が高かったなあと思う一方、その後の自分の仕事にきちんと位置づけていないこともあって、いわば宙ぶらりんだったもの。いま読み返すと違和感があるところも含め、そのままの形で読んでもらえれば。

第01回:「終わりしかない日常」

連載の第一回目から申し訳ないのですが、僕はとても記憶力の悪い人間です。ラジオ放送でもアーティスト名を間違えたり、楽曲の発表年を勘違いしたりということがよくあって、後で気付いていやな汗をかくこともしばしば。「うろ覚えの”J”ポップ時評」なんて連載タイトルを付けてしまうと、なんだかそうした自分の記憶違いに居直ることを予告しているかのようですが、さすがにそんなことはしないつもりです。

とはいえ、うろ覚えが責められるのは正確な情報を求められる場面で間違いを犯すからであって、普通の人にはそんなことは要求されません。どんなに好きな曲でも、正確な歌詞の表記や発表年を覚えているというものばかりではないでしょう。そして、ヒット曲になり、それを耳にする人が増えるほど、こうした「うろ覚えでしか聴いていない人たち」の率は上がっていきます。要するに、ヒット曲を支えているのは、うろ覚えの聴取行動であるわけです。

なにも、「みんなヒット曲なんてちゃんと聴いているわけじゃない」ということを言いたいのではありません。僕が注目したいのは、うろ覚えでしかないにもかかわらず、ある曲が自分にとって重要なものとして記憶されているという状態そのものです。

こうした現象はごく当たり前のように起こることではあります。人間の記憶に関する種々の研究は、記憶とはコンピューターのハードディスクに保存されたデータのようなものではなく、思い出されるたびに意味づけを変える「物語」的な性格を持っていることを明らかにしています。あるヒット曲がその人にとって重要な意味を持つとしても、ヒットしている最中と、数年後に振り返るのでは、まったく意味づけの違うものになるのであって、そこで重要なのは、記憶の正確さではなく、思い出される現在の状況に、その曲がマッチすると認知されるかどうかなのです。

ですが、近年のサブカルチャーの中に「ものすごくあやふやな過去の出来事が、しかし現在の自分にとっては決定的に重要な意味を持つものとして現れる」というモチーフが、何かの兆候のように繰り返されていることには、ちょっとした時代性を感じてしまいます。

2007年のベストセラーを席巻したことで話題になった「ケータイ小説」の一部には、そうした傾向が見られます。たとえば『赤い糸』(メイ作、ゴマブックス)では、主人公は作中で何人かの相手と恋に落ちながら、そのたびに、「今が一番幸せ」と、過去にあった出来事は現在のために存在していたものだったのだ、という形で過去を総括します。というより、この作品全体が、そうした「今のわたし」に向けて過去を再編集する「現在」の断片を、地層のように積み重ねた構造を持っています。

似たような構造は、矢沢あいの大ヒットマンガ『NANA』にも見いだすことができます。特に初期の『NANA』では、主人公のひとり・ハチが、東京に出てくるきっかけを作った恋人と別れた後、周囲の男性と次々に「運命の恋」に落ちる様を描いています。

どんな瞬間も、「いろんな事があったけど、いろいろあって、いまがある」という金太郎飴のような現在になるというテーマは、湘南乃風『純恋歌』(2006年)にも見られます。この曲で歌われる「初めて一途になれた」相手との関係を作ってきた過去のエピソードは、それこそ「いろいろ」としか言いようのない、凡庸な瞬間の断片でしかありません。しかしそこでは、彼女との喧嘩も、「今となっては相手の大切さを感じさせてくれた大事な出来事だった」という形で意味を書き換えられていくのです。

さらに、そうした「いろいろあって、いまがある」という形で過去を総括するという振る舞いは、そのまま無限遠の未来を保証する根拠を生み出しもします。たとえば『純恋歌』では、その「いろいろ」は「ヨボヨボになっても」二人で生きていくための未来へと繋がっているのです。

『赤い糸』や『純恋歌』に見られるこうした傾向を、「ヤンキー・ギャル文化にありがちな頭の悪い行動原理」と切って捨てることもできるのかもしれません。しかしここで僕ははあえて、そこに僕たちの日常を基礎づける感覚が変容している可能性を読み取ってみたいと思います。

記憶というものが、日常を支える感覚の基礎であり、「時間」という概念を生み出す源泉となっていることは、誰もが理解するところでしょう。近代社会は、時間という概念によって日常生活を編成することで、行動の指針を決定する社会です。たとえばこの原稿にも「〆切」というものがあり、僕はそれに従って原稿を書きます。いえ、実際には従っていないのですが、ともあれ、僕の行動は〆切という時間概念によって編成されるのであって、決して「できあがったところが仕事の終わり」ではないということが重要なのです。

僕たちの行動に先立って時間という概念がある。それは個人の選択の外側にある川の流れのようなものであり、宿命的に抗うことのできないものだ、という理念のことを「歴史」といいます。この場合の歴史とは、過去の事実の積み重ねのことではなく、その積み重ねを編成するための理念のことを意味します。それゆえ、フランスの現代思想やポストモダン哲学などでは、それを「歴史=大きな物語(イストワール)」と呼んでいたわけです。

ポストモダン哲学の流行とは、こうした「大きな物語から個人を解放する」というムーブメントの一環だったという見方もできるでしょう。後に衒学的な記述や他領域からの誤った引用が批判されたポストモダニズムですが、おそらく鍵になっていたのは、時間感覚を個人の方へ取り戻すという「解放」のモチーフだったのだと思います。民俗学や網野歴史学のようなものが注目されたのも、そうした流れの中での出来事だったのでしょう。

しかし、こうした出来事が生じ得たのは、人びとがまだ「人類が向かうべき方向はある」という感覚を共有できていたからだというのもまた確かです。人びとが「解放」のモチーフから文字通り「解放」されてしまえば、「大きな物語なんてないんだ」という物言いそのものが大きな物語として機能し、批判の対象になるのは当たり前のことです。そこから始まるのは、誰にとっても共通の理念や現実の編成枠組みは存在しないという酷薄な環境であり、そこから生じる「不安」です。この不安にとりつかれた時代のことを、社会学では「後期近代」と呼びます。

こうした時代において過去を振り返ることは、非常に個別化された事態になります。ある人にとって日本国の歴史を背負うべき重大な出来事も、別の人から見れば噴き上がったネット右翼のキモい書き込みの羅列にしか見えないかもしれない。これは、歴史のような外在的な時間理念に依拠したい人にとっては、端的に言ってキツい。しかしそのキツさに耐えて、終わりの見えないダルい日々を、僕たちは受け入れなければならない。そう言ったのは『終わりなき日常を生きろ』における宮台真司でした。

『赤い糸』や『純恋歌』に見られる「いろいろあって、いまがある」という時間感覚は、おそらくこの「終わりなき日常」を生きていかなければならないんだという悲壮な決意の時代の後だからこそ出てきた、また別の日常を生きる処方箋なのだと思います。「終わりしかない日常」とでも言うべきでしょうか。過去の出来事は、あくまで現在を肯定し、無限の未来を保証するためのものであるという感覚。僕はそうした感覚が、若い世代に少しずつ広がっているのではないかと思っているのです。

興味深いのは、そこで無限の未来を誓ったある瞬間も、未来の時点ではその瞬間を肯定する材料に切り下げられてしまうということです。『純恋歌』の主人公は、曲中の恋人と別れ、次の恋人と恋に落ちても、また同じように『純恋歌』を歌うかもしれない。そこでは過去は、記憶されると同時に忘却されるという、矛盾した性質を持ったものになっているのではないでしょうか。

ではなぜ、この「終わりしかない日常」という感覚が、サブカルチャーの、それも恋愛を中心としたモチーフの中に入り込んでいるのか。次回は、この「誰かとの繋がりを作ること」が、現代において持っている意味について考えてみたいと思います。

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