月一本は映画を見よう年間。3月も末になって見たのは『イントゥ・ザ・ウッズ』だった。本当にちょい役で出てるだけのジョニー・デップを目当てに行くとがっかりするかもしれないけど、それ以上にとてもハイコンテクストで複雑な構造の作品、かつ英語のミュージカルだけに字幕を見ているだけでは理解が追いつかないという、難度の高い作品だったと思う。テーマそのものは実はすごくシンプルなのだけど、春休みの真っ最中で親子連れや中高生の友達グループが多くて、この子たちにちゃんと分かるのかなあとはらはらしながら鑑賞。個人的にはとても楽しめたのでいいのだけど。
公式サイトにある相関図を見るだけでも、複数の物語が絡み合って展開されるお話であることは明白だし、感想を書こうと思えばネタバレは避けられない。さらにネタバレして書いたとしても、作品を見てないと何を書いているか分からないというあたりも難度が高い。だけどまあ、ぱっと見こういう方向からの解説はあまりなさそうだな、と思うので、さっくりと説明しておきたい。
まず、「赤ずきん」「ラプンツエル」「シンデレラ」「ジャックと豆の木」という4つのお話の登場人物が絡みあうストーリーだけど、その中心となる舞台が「森(ウッズ)」だ。お城なり塔なり、それぞれの話の舞台はあるのだけど、登場人物たちはそれぞれの動機で、この森の中に入ってくる。そこで各自の事情が交差し、全員に共通のテーマが明かされるわけだ。
そのテーマとは何か? それは一言でいえば「啓蒙(Enlightenment)」ということになる。啓蒙とは、17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパで起きた、理性によって世界を把握しようとする考え方や、それに基づく知的・芸術的活動のこと。ホッブズやロック、ルソーといった思想史上のビッグネームが、「神の創りたもうた不合理な世界」ではなく、それが神の意志であるかどうかはともかく、なんらかの法則で理解可能なこの世界の原理を解き明かそうと知的な格闘を続け、それは今日に至るまで、僕たちの社会における科学的な知識のひとつのルーツとなっている。
啓蒙とは「蒙を啓(ひら)く」という意味。つまり、真っ暗闇で何も見通すことのできないこの世界を「知」という光で照らし、正しく見渡せるようにしようということだ。『イントゥ・ザ・ウッズ』において「森」とは、まさにこの「暗くて見通しの効かない状態」のことを指している。登場人物たちは森に入ることで、自分の与えられた役割や使命を見失い、まさに「道に迷う」ことになる。それがもたらした悲喜劇が、他の登場人物たちの運命を変えていくことで、別の登場人物の選択が変わり、という「因果の連鎖」が生じていくのが、お話の中盤までの流れだ。
その因果の連鎖によって、誰もがハッピーになったと思った物語は急転する。世界は危機に陥り、登場人物たちは、誰にその原因があるのかを追求し、互いを責める。あのときお前がああしたから、いや自分の選択はその前にあいつがこうしたから、と互いを罵り、自分だけは悪くないと主張する。
そこで興味深いのは、魔女の語る「善悪」の話だ。お前たちは誰もが「あいつが悪い」「自分は悪くない」という。だが問題なのは「いい(Good)」か「わるい(Bad)」なのではない。私は「正しい(Just to be right)」のだと魔女は言う。このセリフを聞きながら僕は魔女が「正義(Justice)」という言い方をするんじゃないかな、と思っていたのだけど、まあ外れてないだろう。
政治思想、特に「正義論」と言われる思想の分野では「善(Goodness)」と「正義(Justice)」を区別して考える。善というのは、個々人が持つ、自分の価値観や倫理観に基づいた判断。それに対して正義とは、社会全体に照らして「まっとう(Just)」であるということだ。ある登場人物にとっては、夫婦の慎ましやかな生活と愛する我が子がいればいいとしても、それが誰かの命を奪ったり、誰かを不幸にしたりしてまで実現されなければいけないとしたら、それは果たして「まっとう」といえるのか? というのが、この考え方の出発点になる。
そんなわけでこのお話では、森のなかで目標や使命を見失い、自分にとっての「善さ」を選んで「まっとう」でない行動をとった人間が不幸になる(多少の例外はある)。他方で、自分だけの「善さ」ではなく、全体にとっての「まっとう」さを選んだ人びとが生き残り、物語の「後」を生きていこうとする。
実はこの辺、深読みすると、戦時において誰が生き残るべきなのかとか、ほんとうに「まっとうさ」だけが優先されるべきなのかとか、かなり論争的な見方もできるのだけど、そこについては物語の筋を大幅に離れるので省略。それよりも注目しなければいけないのは、物語のもうひとつの筋である「親子関係」についてだ。
実はこのお話では、登場人物はみな、親子関係になんらかのねじれを抱えている。ジャックは親から厳しく当たられ、親の言うことを聞かずに牛を豆と交換してしまう。赤ずきんは親の言いつけを守らずに寄り道をしたためにオオカミに食べられてしまう。ラプンツェルは小さい頃に親から引き離され、魔女に溺愛され、監禁されているのに、その魔女を親だと思っている。シンデレラは意地悪な継母に虐待され、本当のお母さんのお墓に足繁く通っている。そしてパン屋は、自分の親のせいで子どもができない呪いを受けてしまっている。誰もが親の言いつけに背いたり、親が過ちを犯したり、親から愛されていなかったりするわけだ。さらに面白いことに、そんな「親」のほうも、「親の親」に同じような扱いを受け、ねじれた関係を解消できなかった人たちでもある。
ここで、このお話は一気に説教臭くなる。つまり、森で迷うということは、親の目を離れて、親に背いて自由に振る舞うこと、だから、森を抜けて啓蒙されることというのは、「まっとう」が何かを知っている親に従うということだ。逆に、親になる場合も「まっとう」に振る舞わなければ、子どもが蒙昧な振る舞いをしてしまう、だから僕たちは常に「まっとう」でいなければならない。むろんここで「親」として想定されている究極の存在は「神」なのだと思うのだけど、そう考えるとこの作品のテーマが突然「神の正義を実現するために私利私欲を抑制しよう」みたいに見えてくる。
蒙昧の森のなかで「いま気持ちよければそれでいいじゃん」と利己的な選択をしてしまい、後になって因果が巡って不幸になったときに「自分は悪くない」と言い訳してしまうのは、僕たち人間の悪い癖だ。だからといって、神の目に照らして「まっとう」であることをつらぬけば世の中がうまくいくのかというと、きっとそんなこともないだろう。例えばこの社会の経済は、ほとんどの場合利己的でわがままな欲求を商品化することで成り立っている。ピューリタンが資本蓄積を可能にしたというのが歴史的に正しかったのかについては論争があるけれど、少なくとも現代においては、抑制よりは欲望のほうが資本主義に適合的だ。
蒙を啓かれた上で、「まっとう」さのために生きるのか、「まっとう」でないとしても私欲をつらぬくのか、それ自体が啓蒙のあとに来る選択だと思う。楽しい映画ではあったけれど、どうにもエンディングにもやもやした気持ちが芽生えたのは、たぶんそういう疑問があったからだと思った。