若い子、特に男の子たちを見ていると、ほんとうに「何も考えていない」というのに出くわすことがある。頭が悪いという意味じゃない。たとえば誰かが傷ついて悲しんでいるときに、相手の感情を慮って慰めるのではなく、この場においては「はげます」コマンドが正解だ、という考え方で行動してしまうような。
直感で行動するというのも違う。考えるより先に正解の行動を探してしまうというのかもしれない。その行動が正解であるかどうかは一般論では判断できず、両者の関係やそれまでの経緯に左右されるはずだし、行為とその結果の関係も不確定だ。問題は慰めたいという気持ちはあるのに、相手について思考することを投げ出しているその点にある。
そうした傾向は言葉選びにも現れる。どんな文章も「事実」と「感想・主張」で構成されるのだけど、よく考えていない人の文章は、事実ばかりで感想がない。たまたま今朝見ていたふたつの文章が、その対比をよく示していると思った。
明日もまた、頑張ろうと思えた
http://anond.hatelabo.jp/20150604163705
性欲強い女に溺れたらエライ目にあった
http://anond.hatelabo.jp/20150605022921
上の文章も下の文章も、基本的には「起きたこと」が書かれているのだけど、上が「起きたことから感じたこと」の間にきちんと理由を挟んでいる(「オーナーが最近の私をみて、そのお客様のシャンプーを担当させたのだとわかって」→「ありがたい気持ちで一杯になった」)のに対して、後者は行動や感じたことのベースとなる思考がまったく見えない(「どこからどうみても仲良しカップルだった」→「しかし、僕は少し自由が欲しくなり実家に帰ることが多くなった」)。
ポイントは、「考えていない」ことと「感情の振れ幅」の間に関係がないことだ。たぶん上の文章以上に下の文章の書き手も傷ついたり心が動かされたりしている。ただ「伝達」という目的に照らしたとき「伝わる言葉遣いをする」という目標が達成できなければ、それは単なる書き散らしでしかない。もちろん書き散らしたいだけだということは分かってるけど。
管理仕事をしていたり、学生を指導したりしていると、「指示したこと」と同時に「その根拠」が求められていることがよく分かる。君がそういう行動をとったのは、こういう意味があると感じた、だから僕はこうするのだ、といった具合に。ときに「結果だけをドライに評価するか、過程の努力も込みで評価するか」といった対立が言われるけど、どちらであろうと必要なのは、評価者自身の見方や基準を伝えることじゃないのか。
ちなみに、「起きたこと」と「感じたこと」の間に生じたリンクそのものをあまりに大事にしすぎて、「何があろうと自分がこう感じたのだから正解!」というタイプの子もいる。女の子に目立つけど、実は僕自身がまさにそういうタイプなので、ノリはすごくよく分かる。でもそういう態度は「なんかすごい分かるー!」以上のリアクションを獲得できないので、やはりTPO的に向かないこともある。
当たり前だけど、起きたことから直で感じたことを、その理由まで含めて噛み砕いて自己分析し、言葉にするのはとてもしんどい作業だ。そしてそんなことをしなくても、僕たちのまわりには、コミュニケーションのためのテンプレが溢れている。うぇいうぇい言って飲み会したり、ワロタワロタ言ってれば、ひとまず会話は続く。たとえちっとも面白くないと思っていたとしても。
でも、自分にとってほんとうに大切な人がいて、その人と意思や感情を交歓したいと思うなら、僕たちはそのしんどい作業を怠るべきじゃないと思う。励ましてあげなきゃ、嬉しいって伝えなきゃという気持ちがはやってテンプレのような言葉に頼るのではなくて、一呼吸置いて「こうだからこう感じた」と、自分にも相手にも納得のいく言葉を探すことって、慣れてくると、周囲や世界と自分のシンクロ感を高めてくれるいい効果を持つはずだ。