希望の時代の中で―『シン・ゴジラ』雑感

雑記

少なくとも周囲では話題だし、期待もしていたのでさっそく『シン・ゴジラ』を鑑賞してきた。「館長庵野秀明 特撮博物館」にも何度か足を運び、「巨神兵東京に現わる」を会場で何度もリピートした経験があったからか、この映画を通してしたかったこと、撮りたかった絵に対する切実さがすごく伝わるものだった。たぶんあのカットやこのカットがスクリーンに投影されていれば満足という向きもあると思うので「考察」みたいな無粋な真似はするべきじゃないと思うのだけど、他方で真面目に「社会派映画」として見る向きがあることも確かなので、その点も含めややネタバレを含む感想を。注意しておくとストーリーなどの詳細な解説はしないので、見に行くかどうか迷ってこの記事にたどり着いた人には、未見の人はマジで劇場に足を運んだ方がいいと思うってことは伝えておきたい。

さて、作品を見ながら真っ先に思い出していたのは『パトレイバー the Movie』でも(もちろん『踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』でも)『日本のいちばん長い日』でもなく、昨年公開された映画『天空の蜂』だ。キャストが若干被っていることもあるのだけど、おそらく背景にある社会的事情やテーマ、想定外の危機に対応する人びとを描くという点で、両者はかなり共通しているところがある。さらに言うと、アクションシーンでは大興奮するのに人の感情や葛藤、社会的な面でのリアリティとなると非常に薄味でエンタメ寄りに思えたことも、自分の中で両作を重ねあわせる理由になっている。

もちろんそういうものを作ろうと思って作ったのだから、よいとか悪いという話ではない。ただどちらの話も「人間は最後には強い」というメッセージを込めつつ、「一応はハッピーエンドだけど、これで問題がすべて解決されたわけではない」という含みを持たせた点には注目したい。というのも、おそらくそれが現代の日本において唯一とも言えるほど、大衆性を持って受け容れられ、エンタメの一部にすることのできる「希望の話」だからだ。

虚構の時代から不可能性の時代へ

話を進める前に、少しだけ補助線を引いておこう。社会学者の大澤真幸は、師匠である見田宗介の時代区分を参照しながら、現代を「不可能性の時代」と評した。2008年のことだ。この時代区分はもともと「現実」の対義語として何を想像するかという意識調査の結果をもとに提示されたものだ。たとえば「理想と現実」という言葉で言い表されるように、現実はどうあろうと、そこから理想に向けて歩んでいくことが重要なのだと考えることもできる。一方で「虚構と現実」のように、現実でないものとはすなわちウソのものなのだという言い方もできる。見田-大澤は1945年から1970年までを「理想の時代」、65年から75年までを「夢の時代」、75年から90年を「虚構の時代」とする時代区分を共有している。その上で大澤は「夢」を理想と虚構の間に位置するものと捉え、現代を「虚構の時代の果て」として、虚構と現実に引き裂かれる「不可能性の時代」と位置づけている。

科学の概念は厳密なものだと思っている人のために慌てて補足をしておくと、こうした時代区分は実証的なものというよりは、社会の観察者である社会学者が、いわば「時代の気分」としてある時期をひとまとめに捉えるための指針であって、必ずしもすべての人が高度成長期には理想に燃えていたという話ではない。さらに言うと、社会の多様性が増してくると「現代は○○の時代だ」と言われて「そうだそうだ、言われてみれば確かに」と感じる人も相対的に減ってくるので、「そんなわけないだろう、適当なことを言いやがって」という反応もまま起きる。実はこの話は後でもまた振り返るのだけれど、ともかくそういう区分でものを考える一連の人たちがいるということだ。

さてそのように考えた時、『シン・ゴジラ』はどのような意味で『ゴジラ』といえるか。よく知られている通り、1954年(昭和29年)のビキニ環礁核実験問題に着想を得て、水爆実験によって誕生した核の怪獣がゴジラである。そこには、人間の生み出した力が途方もない帰結を人間にもたらすという、戦争の記憶の生々しい時代ならではのリアリティがあった。他方で時代は高度成長期へと向かうまっただ中。1956年(昭和31年)の経済白書は、日本のGNPが戦前の水準を回復したことをもって「もはや戦後ではない」と論じ、安保重視の岸内閣に代わって誕生した池田内閣は、就任前の1959年(昭和34年)から主張していた「10年で月給を二倍にする」経済重視の政策、いわゆる所得倍増計画を推し進めていく。「破壊の記憶」と「破壊されても成長が全てを解決する」という楽観が共存していたのが、初代『ゴジラ』の誕生した、理想の時代だった。

では2016年の『シン・ゴジラ』はどうか。「破壊の記憶」と「復興への前向きな姿勢」という点では、1954年と現在は似ているようにも思える。しかしながら両者には決定的な差がある。初代『ゴジラ』の時代に人びとが感じていた復興や成長への胎動は、あくまでスクリーンの中ではなく、劇場の外の現実の中でこそ感じられるものだった。一方で僕たちが生きるこの現代においては、「すべての問題が未解決のままだけど、まだ終わるわけにはいかないんだ」というメッセージは、スクリーンの中でも、そしてこの現実においてもそのまま適用される。しかもそれは、一歩一歩着実に前に歩んでいるというよりは、「前進している」「成長している」というメッセージが、様々な数字を伴っているにも関わらずいっさいの現実感を欠いたまま流通しているような、そういう物言いになっている。

そうすると次に問題になるのは、ここで示されている「問題山積だが前を向いて行こう」というメッセージが、作品においてどの程度「ガチ」なのかということだ。監督もスタッフも特撮エンタメを作りたかったんだろうからそういう問いを立てるのもいかがなものかと思う。ただそういう水準とは別に、僕はおそらくこの作品のメッセージそのものが虚構であり、現実とは切り離されるべきなのだという解釈を取りたい。

『シン・ゴジラ』は現実か虚構か

庵野監督が実写を撮る際に僕がどうしても気になるのが「女子高生」の表象がとても「コギャル」的――21世紀のギャルではなく、90年代の――であるという点だ。さらに言うなら、特に人が絡んでくるような場面で怪獣が登場するとき、そこにはどうしてもある種の「古臭さ」が伴っている。「特撮博物館」では、かろうじてテレビは薄型であるものの、机もパソコンも書棚の中身も、どう考えても20世紀の寄せ集め、それも70年代から90年代までのものが雑多に並べられている部屋がミニチュアのジオラマで展示されていた。看板にしても、現代では姿を消した消費者金融のものなどが目につく。

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これはおそらく、製作の都合というよりは意図的なものだろう。要するに、怪獣が街を踏み荒らすときには電線がスパークして欲しいし、瓦礫となった中にも「生活臭」を感じる残骸があって欲しいのだ。そう思ってみると今回の『シン・ゴジラ』でも、懐かしさを感じる電線と道路標識の上をゴジラの尾が横切ったり、振動で崩れ落ちる瓦屋根だったりといったカットが無数に登場する。ちなみに女子高生についてはちゃんと確認できなかったが、近年ではどちらかというと少数派かもしれない超ミニのスカートばかりが目立ったように思えた。つまり、はじめから本作の世界は、「特撮用に作られたセット」なのである。

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だから、そこにどれだけ現代の、そして現実の日本と重ねあわせられるところがあったとしても、『シン・ゴジラ』に登場するのは「虚構の日本」だ。そう、本作のコピーはまさに「現実(ルビ:ニッポン)対虚構(ルビ:ゴジラ)」なのだった。ゴジラはあくまで虚構であり、日本はその挑戦を受けているという構図は、最初に明らかにされている。冒頭に述べた『天空の蜂』と『シン・ゴジラ』に共通する「ハッピーエンドだけれど、問題はまだ解決されていない」「最後には人間は強いのだから、前を向いて進もう」というメッセージに僕が注目したのは、この「現実との関係性」において、見田-大澤が提示した時代区分を援用しながら、そこに現代の気分を語る糸口が見えるような気がしたからだ。

というのも僕たちは、多様化し、島宇宙化する社会の中で、もはや「現実」以外を拠り所にできなくなっているからだ。誰かの語る理想は誰かにとっては現実を無視したお題目に過ぎず、別の誰かの語る理念は多様な人々のリアリティを排除していたりする。社会学の中では近年「当事者性」といった概念が様々な研究の中核になりつつあるが、そこでも「大きな理念や理想では多様な現実を捉えきれない」という考え方が背後にある。

「希望の時代」の中で

では現実だけを客観的、中立的に捉えていればそれでいいのかというと、まったくそんなことはない。たとえば経済の分野。理屈上は金融緩和を通じて市中にカネを流し、経済が回復してきたところで大胆な規制緩和を通じて民間の活力を高めれば、GDPの成長目標は達成できるはずだった。しかしそうしたメカニカルな話に対して、まず増税のダメージがあり、海外の動向もあって企業も設備投資や賃上げという経済成長を支える条件となる行動に消極的になっている。個人消費が伸び悩んでいるのも、賃金が上昇せず、将来不安が先に立つからだと言われる。株や為替の値動きは、そうした人びとの思惑を睨みながら、小刻みに値を上げ下げしている。僕は社会学を勉強した人間なので、経済学的な物価や設備投資額の動きではなく、それがたとえ数字の上では多少なりとも伸びていたとして、それが実感されていない場合には想定ほどエンジンがかからないという点にどうしても目がいってしまう。人びとはなぜ、気前よくお金を使わないのか?

あるいは少子化問題。多くの対策が講じられたものの、近年に至るまで出生率の大きな上昇には至っていない。そうした中で政府が注目するのは「希望出生率の向上」だ。つまり、様々な施策を打つ中で、世帯で子どもは1人が限界というのではなく、2人目、3人目も産みたいと思ってもらおうというわけだ。政府の数値目標として掲げられているのは「希望出生率1.8の実現」だという。言い換えると、「現実の出生率が上がること」ではなく、「希望の出生率が上がること」が、現実を変える重要な政策的手段と見なされているのだ。

原点に立ち返って、現代において「現実」の対義語としてふさわしいのは「希望」なのだと思う。この現実に問題が山積していることは誰でも分かっている。しかしながらそこに絶望し、変えること、解決することを諦めてしまったら、もうその先はない。だからこそ最後まで諦めずに、希望を持って一歩一歩着実に前へと歩むことが、結果的に現実を変えるのだと。こうした「(小さな)希望の時代」の気分は、もはや希望を現実とも虚構ともつかない、ただ生きていく姿勢として、僕たちに示している。

個人の生活だけではなく、政治のことばもそうなっているかもしれない。かつて政治が「富の分配」を担っており、また分配すべきパイが増えていた時代に政治に求められたのは「月給2倍」のような、明確な分配の約束だった。ところがそうした分配が一定程度の規模で達成され、また分配すべき富が目減りしてくると、分配の約束をすることができなくなる。代わって求められるのは、有権者に希望を与え、人びとが希望を持てば現実は変わると、変わると信じれば本当に変わるのだと思わせてくれるようなメッセージだ。だから政治家も、かつてのような分配と調整の上手な政党型人間から、経営などの組織運営の経験を個人的資質として持つビジョナリーへと、その振る舞いを変えていく。

もちろんそこにはビジョナリーだけでなく、明らかなウソを、それと知りつつ「希望」として喧伝するものもいるし、自分が望んでいることが、ほんとうに自分やみんなを幸せにするものなのかをよく理解していない人もいる。逆に優秀だったり理想に燃えていたりしても、希望を感じられなくなるようながっかりした言動があれば、その人が世論を背負って仕事をすることは難しくなる。良くも悪くも、実際に現実を変えられるかどうかは「希望」の側にかかっていると、僕たちは感じるようになっている。

僕たちが『シン・ゴジラ』から何らかの挑戦を受ける「現実」の側にいるとするなら、おそらくそこから受け取るべきことは「希望のメッセージ」はほんとうに希望なのかということだろう。もちろん、僕自身はこの作品を「特撮大好きなスタッフが愛と情熱を込めて制作した特撮映画」だと思っているので、そういう受け取り方はせずに、多摩川防衛戦をもう一度見るために劇場に足を運びたいと思っているけれど。

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