運動会シーズンということで、お天気も微妙な日々が続く中、やきもきしている人も多いと思う。僕はと言えば、子どもの頃は何かに向けて打ち込んで、その成果を出すことに対する意欲がまったくない人間だったので、運動会が楽しみだったとかいう記憶もなく、したがって前日にお天気でやきもきした覚えもない。ところが親になると、朝の9時に運動会を実施するかどうかは7時のメールで連絡する、なんて言われて、ぎりぎりまでお弁当の用意の算段がつかないとなるわけで、否が応でも敏感になってしまわざるをえない。なんでそうなるのかというと、「できる限り実施できるようにしたい」と関係者が考えているからであり、少なくない数の親が「子どもがこの日のために頑張ってきたのだから、なんとか予定通り実施して欲しい」と思っているからなのだろうと推測する。
こうした感情が、いわゆる「組体操問題」をややこしくしているのだろうと思う。内田良先生の大活躍のおかげで、「組体操は危険」という認識が広まった、いや正確には、「組体操は危険だという意見があることを察知したスポーツ庁が教育委員会に通知を出したことで、保護者や学校関係者も対応せざるを得なくなった」ことで、組体操が中止になった学校も多かったようだ。ただそれも地域によってまちまちで、朝日新聞の記事によると、金沢市の小学校では昨年の52校から35校に減少した一方、僕の住んでいる兵庫県の小学校では、全165校のうち、昨年が162校だったのが159校とほぼ変わらず。演目がどのようなものかによって話が変わるのでなんとも言えないが、やはり「やめろと言われてやめられるものではない」というのが実情のようだ。
娘の通う小学校でも組体操は実施された。初めて見たのでこれまでは分からないけれど、ピラミッド、タワーともに3段までで、それらすべてに大人の補助員がついているという点では、安全性に配慮しながら実施するギリギリのラインを探った結果なのだろう。実際に目にすると、確かに大技で「おおー、ぱちぱち」という気持ちにさせられるし、それは翻って子どもたちにも達成感を与えるものになる。「教員や保護者に根強い人気」というのは、こういうことなのだなと感じた。
閉会式のスピーチでは、組体操に挑戦した6年生の代表が「今年は組体操が中止になる学校も多いと先生から聞きました。でも、みんなで一生懸命練習して、伝統あるこの学校の組体操に挑戦できてよかったです」というような話をしていた。その話を聞いて、組体操が止められない理由がわかったような気がした。「伝統」「継続」がもたらす「達成感」という教育効果が、年間の教育日程の中に組み込まれているのだ。
書店で先生向けの棚を見ると「学級運営」というジャンルがあることに気づく。担任を受け持った先生が、どのようにしてクラスの子どものモチベーションを高め、ひとつの集団にまとめあげていけばいいのかについて書かれている本、要するに組織マネジメントの教育版だ。それらを読むと、スポーツ行事や文化行事が、学級運営に密接に結びついていることがよく分かる。1学期にクラスの硬い空気をやわらげ、夏休み明けからの運動会の練習によって、影響力の大きいスポーツに強い生徒を中心にクラスをまとめ、文化行事で一体感を完成させる。中学校のことは分からないけれど、受験で面接なんかを担当して聞く限り、高校においてもこうしたマネジメントは広がっているし、逆にスポーツ行事を新人研修の中に取り入れる企業が出ていることも含め、学級運営と経営組織マネジメントの距離感は、僕が子どもだった頃と比べてもずいぶん接近している。
なんとなれば、自分が「ゼミ」という単位で学生を受け持つようになって苦心しているのも、この「集団としてのモチベーションの向上」だ。そしてそのとき、「伝統」「継続」がとてもよい効果を持つことも、経験上強く感じている。「教師」と「学生」というタテの関係ではなく、「先輩−後輩」という、ややナナメの関係を上手に構築し、「先輩がしたようなことを、私もしたい」という風に近距離の目標として設定できるよう促すことが、学びのゴールイメージを形成し、自発性を高めるのにはものすごく有効なのだ。
「組体操」は、こうした「近距離のあこがれ」として、いわば上級生だけが経験できる特権のようなものになっていた。そこでは、「辛い練習に耐える」ことを通じた「ほかでは得られない達成感」があり、それを経験した先輩たちの誇らしげな顔が後輩からの憧れを生むという「ナナメの関係」が、教員・保護者を巻き込んで、エコシステムのように形成されていたのだ。だからこそ、そうしたものを教育日程に組み込んでしまっている組織・集団ほど「自分たちの前の代で組体操を止めてしまった」という残念をどこで引き受けることもできずに、小手先の安全策だけを拡充しながら継続してしまうのだと思う。
ここから引き出すことのできる論点は、おおむね2つだ。ひとつは、組体操を止めるという、どう考えても合理的な判断を組織として下せない理由は、組織が非合理だからではなく、上位の組織的合理性にこの非合理が組み込まれてしまっているために、それを抜いて組織が成り立たなくなっているからだ。ということは、必要なのは組体操の危険性を周知するだけではなく、それが組み込まれたエコシステムに替わるプランを立てて、新しいエコシステムを構築することだ。
おそらく、今年の運動会で組体操を実施した学校の中でも、安全性に配慮はしたけど迫力に欠けるね、これでは従来の達成感をフックにした学級経営はできないね、という感想を抱いたところも多かったはずだ。じゃあ、かつての組体操のような「非合理なほどに危険であるがゆえに達成感も大きいプラン」に対するオルタナティブってどう設計できるのか、学校は相当知恵を絞らなければいけないだろう。その「替わり」が確立するまでは、「危ないけれど便利だから」という理由で、組体操(のようなもの)は引き続き実施されることになる。
もうひとつの論点は、じゃあと大人の我が身を振り返ったときに、そういう「非合理な経験を通じて組織をまとめる」ことの誘惑に、マネージャーとして抗えますか、ということがあると思う。小中学校はおろか、高校、大学、そして企業研修まで、世の中にはこうした「非合理・理不尽」を、必要悪とすら思わない、むしろポジティブなものとして扱う組織があふれている。精神を追い込む新人研修、全社員による富士山登山、企業理念を諳んじることができるまで徹夜で続く合宿、飲み会での一発芸。どれもこれも、組体操を批判するなら全部やめてしまえと思うようなものばかりだ。
どうして分別のある大人が、こうした取り組みを止められないのか。ひとつは、それを強いている先輩の側が、自分の体験をもとにそれらを「いいこと」だとマジで思っているからだろう。自分も最初は嫌だった、辛かった、だからこそ気持ちはわかる、でも、この非合理を乗り越えたからこそいまの自分があるし、それを乗り越えようと努力する後輩はかわいい。なんとか手助けをしたいと思う、という。こうした感情は、組織全体にとってもロイヤリティ(忠誠心)を高める効果があり、「善意」で後輩に無理を強いる先輩というエコシステムを、おいそれとは放棄できないという状況を生んでいる。
さらには、社会全体で多様性と流動性が上っていることもその背後にあるかもしれない。もともとこうした研修は、ホワイトカラーとブルーカラーが一緒に正社員として仕事をする「職工一体」と言われた日本の製造業組織で生まれ、70年代、80年代の日本的経営ブームの影響でアメリカに広がり、ジョブ型雇用の組織でメンバーシップ型のコミットを社員に求めるための仕組みとして発達してきたものが、非正規雇用が増加した00年代の日本に逆輸入されたという経緯がある。要するに「職員も工員も同じ社員」という意識を生むためにつくられた仕組みが、「働き方は多様にして、容易に首を切ることのできる非正規も増やしたが、一体感だけは手放したくない」という現代の組織の要望にマッチしてしまったのである。
個人的には、もちろんそうした「一体感」にはずっと馴染めなかった。でも自分が組織を運営する立場になると、一方でその「一体感」を醸成しなければ成り立たないレベルの期待や役割があり、他方でそれが行き過ぎたときには「いやいや」とブレーキをかけるという、微妙な手綱さばきが要求されるのだなと思うようになった。大抵の場合、組織的に行われることは「やりたい人だけでやってください」だと、フリーライダーばかりになって誰も手を挙げないままになるか、一部の人に負荷が集中してその人が潰れる。「いやならやらなくていい」と「いやでもやりなさい」のバランスをどのように取っていくか、まだ正解は見つかっていない状況だ。組体操が嫌なら、替わりを考えるのが、たぶんそれを利用してきた側の責任なのだ。