あちこちで言及してきたように、今年はひたすらライブハウス通いを続けた1年だった。ワンマンライブをできるかどうかギリギリというレベルのバンドをたくさん追いかけ、若い女性が中心のお客さんに混じって拳を上げ、イベントライブ後の物販に並ぶメンバーとお話をするなんて、40過ぎてやることかと言われると恥ずかしいけど、いままでもそうだったように、自分がやってみたいと思ったことは、ゼロの気持ちで、そこに来ている人と同じ感覚で参加してみたいので、結果的にライブハウスに行き始めたばかりの高校生みたいなことばかりしてたかもしれない。
とはいえ、そうやって同じ目線で参加してみて、ああこういうことかと分かることもたくさんある。そのすべてを体系的に説明することはできないけど、たとえば今のシーンでソーシャルメディアがどう使われているかとか、関東と関西では微妙にウケている曲の傾向に差があるとか、それらが組み合わさって地方ごとにローカルなシーンができあがっているとか。あまりできの良くない学部生の卒論くらいのネタにはなりそうだ。やらないけど。
そんなわけで、今年ライブを見たり何度も聴いたりしてきた音楽たちをざっとご紹介。
(1) Halo at 四畳半
「千葉県佐倉市、Halo at 四畳半!」とMCで出身地を連呼するVo.渡井翔汰のピュアな声と歌詞が特徴的なポップロックバンド。佐倉市と言えば同郷の大先輩がBUMP OF CHICKENなわけだけれど、渡井の書く歌詞の世界観には、はっきりとその血が流れている。綿密に練られた世界観と、その世界観の中で動く登場人物たち、そしてそれを眺めている主人公といった物語的な言葉の配置は、テイストや方向性が違っていたとしても紛れもなくBUMP以降の、というより、2000年代のネット文化の中でBUMPに刺激されて登場した無数のFLASH動画や、そこから派生してボカロ文化に定着した、「おはなし」としての詞のあり方を最先端で示している。
春を売った少女は鉄塔の陰になった
空を飛びたいんだと嬉しそうに話していた
(「春が終わる前に」)
映画から歌詞の着想を得ることが多いという渡井だが、たとえば上記のような歌い出しで即座に思い出すのは『リリィ・シュシュのすべて』における蒼井優だろう。彼らの物語敵世界観の中でも特に岩井俊二の影響を感じるのはこの曲だけど、どこか彼らの歌詞には、思いの届かなさや取り返しのつかない出来事といったリグレットが目につく。
彼女は悲劇の中で息をする
灰色の庭で悲しみと踊る
(「シャロン」)
テレスコープを覗き込んでいる 少女の街に
ミサイルが空を飛んで行く それさえ人の希望
(「箒星について」)
愛するものが殺されて
願いは遠く叶いやしないとしても
果ての無い空に明日を描いている
(「リバース・デイ」)
何かが決定的に欠けていたり、失われたりした状態から、どうやって「歩き出す」のかを、4分前後の曲の中で描ききることはとても難しい。いきおい歌詞は抽象的・比喩的になるし、その意味ではいわゆるヒットソングのように、サビの印象的なフレーズを繰り返し口ずさむようなタイプの曲は、あまり彼らには向かないかもしれない。しかしながらこうして歌詞を並べてみると自然とメロディがついて出てくるような、計算されたその言葉の選び方は、間違いなく「唄」としての完成度の高さを示していると言えるだろう。
完成度の高さという点では、アレンジの綿密さにも注目しなければならない。「Aメロ+Bメロ+サビ」という基本的な構造は守りつつも、それはあくまで導入だけの話で、そこからさらにCメロ、Dメロ、大サビへと展開していく曲が非常に多く、また各パートのアンサンブルについても、変拍子や掛け合いなどの複雑な構成が織り込まれている。ライブで見るとよく分かるのだけど、たとえばMCを担当することの多いBa.白井將人のベースラインは、ものすごく派手に動いているように見えて、かならずボーカルの裏を縫うように設計されている。ギターの音色やメロディとのアンサンブルを見ても、スタジオで「せーの」で作ったというよりは、一度譜面なりPCなりに落とし込んでから、誰がどこを埋めるのかを決めた上で作り込んだように聞こえる。
そうしたアンサンブルが可能になるのも、おそらく彼らの「仲の良さ」によるところが多いのだと思う。高校時代からのパートナーである渡井と白井を中心に、仲のいい友達・先輩後輩が集まって、地元から音楽を発信し続けた結果としていまがあるということが、一度ステージを見ると誰の目にも明らかになるくらいにメンバーの結束が強く、演奏しながらメンバー全員が唄を歌っているのを見ると、この人達はほんとうにバンドの曲が大好きなんだなと感じる。オープニングで必ず、白井とGt.片山がモニターアンプの上に上がって楽器を掲げるのだけど、その瞬間彼らは全身で、いま自分たちがステージに立てていることが幸せであることを、精一杯表現する。
過去にそんなバンドがあったろうか、と考えて思いついたのは、2000年代に入ってからのMr.Childrenだった。同じくメンバーの結束が強いものの、様々な紆余曲折を経て再浮上する『シフクノオト』前後の彼らがステージで見せる満たされた表情は、僕にとって「バンドという幸福」の最上級なのだけれど、願わくばHaloが、これから長く続くであろうキャリアの過程において、ああいう成熟した幸福な笑顔を見せる瞬間に立ち会いたいと思う。
(2) The Cheserasera
3ピースバンドでありながら、とても分厚いギターアレンジと、センチメンタルなメロディが特徴のThe Cheserasera。Vo.宍戸翼の書くメロディと歌詞は、おそらく2010年代のコンポーザーの中ではもっとも上質なものだと思っている。おそらく宍戸はクラシックギターの訓練を受けたのではないかと思うのだけど、普通3ピースでギターがコードを鳴らしながら歌うと、コードの構成音の間を言葉が行き来するような、いわゆる弾き語り的なものになりがちだ。しかし宍戸の場合は、メロディが先にあってギターの伴奏がそこに乗ってくるようなアレンジをするケースが目立つ。もちろんそれは確かなテクニックがあってこそなのだけど、たとえば「賛美歌」におけるサビの進行「I→III7→VIm→IIm」といった独特の流れは、ちょっと循環コードとして鳴らしても思いつかないし、実際、この曲のメロディしか通りようがないと思う。
また、歌詞に漂う無常観も非常に独特だ。ライブで通して聞くと強く感じるけど、宍戸の書く歌詞には、常に「来る者拒まず、去る者追わず」という、ある種の諦念が流れている。
「いつかは私あなたのこと
忘れちゃうかもしれない
でもいつまでも味方よ 愛してる」
(「月と太陽の日々」)
これから死ぬまで一人前の
まともな大人の人として歩いてゆく
蒸し返す街でふと思い出す
「ずっと子どもでいられたらな」
きみの言葉
(「Escape Summer」)
終わりのベルが鳴り響いて
今日からは別々の道
(「After party lululu」)
いまここに大切な人がいたとしても、それは来年には別の人になっているかもしれないし、外的な力で別離の瞬間が訪れるかもしれない。しかしそれは誰にもどうしようもできないことであって、僕にできるのは、それをせめて微笑みながら見送ることだけだ、とでも言いたげな儚い歌詞が続く。メロディラインは、よく「懐かしい」とか「センチメンタル」とか言われるけれど、僕に言わせると「ちゃんと譜面に起こせるメロディ」。つまり、言葉によって不安定になることのない、必然性のあるメロディだ。こういうタイプのメロディメーカーは、おそらく平成初期くらいまでのコンポーザーには当たり前のようにいたのだけれど、曲を書く側も歌う側も自作自演が多くなった昨今、そういう曲を歌いこなすことが難しいのもあるのか、あまり聞かれなくなったように思う。
今後、バンドとしてはもちろん、コンポーザーとしても是非さまざまな人、できれば女性歌手に曲を提供してほしいと思っている彼ら。2017年はもっとたくさんの人にケセラの良さが伝わりますように。
(3) PELICAN FANCLUB
インテリジェンスを感じる歌というものがある。別に言葉が難しいとかアレンジが前衛的だとかそういうことではない。簡単な言葉の選び方の中にあるウィットやアイロニーが、分かる人にはにやっとくるレベルで盛り込まれていたりすると、僕なんかはすごいインテリジェンスを感じる。忌野清志郎はかつて、オールド・ブルースの影響を受ける形でそうした表現を日本語ロックの中に持ち込んだし、その流れを受け継ぐように、THE BLUE HEARTS、スピッツといったバンドが「平易な言葉の中にアイロニーを持ち込む」という表現に挑戦してきたと思う。
満面の笑顔で「今日は来てくれてありがとう!」なんて絶対に言わなそうな、どちらかというと真顔のほうが似合うVo.エンドウアンリが作詞作曲を担当するPELICAN FANCLUBは、おそらくそうした系譜の最後尾に位置している。もちろん、そうしたシニカルでアイロニカルな歌詞に挑戦したバンドはこれまでも無数にあったし、すべてがその試みに成功してきたわけでもない。だがインタビュー等を読む限り、エンドウは自分の書くものに対して非常に自覚的だし、より先鋭化されてきているようにも感じる。
ねぇ なんで皆腕がないの
ここではこれが正義なの
ねぇ なんで皆足がないの
ここではこれが正義なの
(「Variety Mania Talent System」)
音楽いらない 映画いらない
演劇いらない 絵画いらない
漫画いらない 玩具いらない
別に何もなくないから
(「説明」)
特に衝撃を受けたのは、今年の4月にHalo at 四畳半、SHE’Sと共演したときのライブ。新曲の「説明」を披露するにあたって「僕ら、ドリーム・ポップとかいろいろなジャンルで言われてるんですけど、僕らは演歌だと思っていて、僕らなりの演歌をやります」と紹介していたのが印象的だった。終演後、たくさんの人が「ペリカンやばかった!」とLINEしたりツイートしたりしていた光景が目に焼き付いている。
近年、バンド活動の中に「ソーシャルメディア営業」みたいなものが入り込み、普段の活動の様子を写真付きでツイートしたり、ライブの感想をRT・ファボしたりといったことが普通になりつつある。音楽が文化産業であり興行でもある以上、それはそれで大事なことなのだけれど、PELICANを見ていて思うのは、まずは自分たちの表現するべき音楽があって、拡散だの営業だのはその後についてくるのだという当たり前の事実。「過剰なファンサービス」とは縁のなさそうなくせに、バンド名に「ファンクラブ」を冠する彼らが勝負するフィールドはあくまで曲ということだろう。
個人的なことを言えば、今年発売されたアルバム『OK BALLADE』が、色んな意味で自分の中に深く刺さるものだった。特に「記憶について」は、今年あったたくさんの出来事を心に焼き付けておく上で何度も頭の中を巡ったし、そもそも「体感消費」の枠組みを「記憶にしか残らないからこそ、何度でも体験したくなる」ものとして考えることになったきっかけが、実はこの曲だったのだ。
この世すべて記憶なんだ
頭にしか残らないんだ
だからどうか忘れないで
形として残らなくても
(「記憶について」)
(4) ハルカトミユキ
ミュージシャン、特に人前で自分の書いた詞を歌うような人には、感情表現の苦手な人が多いように思う。ライブ終演後の物販で並んでファンとコミュニケーションできるのはたいてい他のメンバーで、ボーカルだけは無口に所在なげに突っ立っている場面をよく目にする。そういうキャラ設定の人もいるのかもしれないけれど、僕の中でハルカさんは、まさにそうした「歌以外の表現で世界と関わるのが苦手そうな人」の代表格だ。いや、もちろん普通にMCもするしツイッターでは笑顔で営業先の写真にも載るし、舞台にも立っているわけだから、本当はそんなことないのだろう。しかしステージに立っているときの彼女は、他に世界と関わる手段のなさそうな、歌だけがすべてというたたずまいでギターを持って立っている。
初めて彼女たちの曲に触れたのは、2013年の「ドライアイス」だ。ミドルテンポのロックに乗せて歌う「僕らの夜に出口はなかった」という閉塞的な歌詞が、頭に残って離れなかったのを覚えている。70〜80年代のフォークソングに影響を受けたという彼女たちのソングライティングは、正しく「歌いたいことをコードの上に乗せていく」スタイルで、メロディの流れも進行もとても自然だが、乗せられた歌詞の儚さや閉塞感、失望感といった感情が、必ず心に引っかかりを残すのである。
もしも私がずっと途方にくれても
朝は来てしまうね
これからは
約束や連れてきた幻が
元の場所に帰るだけ
(「マゼンタ」)
それでもいつか
後悔が答えになるように
生きるよバッドエンドの続きを
信じて
(「バッドエンドの続きを」)
言葉の譜割りは複雑で、明らかに詞先で作られたのだろうことがうかがえる。ただ、こうした想いが先行するタイプのアーティストは、アイディアの枯渇も早いという傾向にある。普通の人間が表現したいことなど、そんなに何曲もないのだ。それなのに彼女たちの場合、閉塞しながらも決して下を向かないで前進するという姿勢が一貫していて、今年リリースした『LOVELESS/ARTLESS』では、その「希望」がはっきりと歌われている。
ああ なんて愛おしい
曖昧な日々
過去はいつも 美化されるだけ
やりなおすのはごめんだ
(「DRAG&HUG」)
太陽になれないそんな僕だけど
君の足元を照らす月になろう
さみしい夜とんで行くよ
君がもう独りで泣かないように
(「夜明けの月」)
リリースツアーのワンマン、僕はこの「夜明けの月」を聴きながらひたすら号泣していた。よく、涙をつーっと流すのを「号泣」と表現している人がいるけれど、どっちかというと嗚咽をこらえて涙する感じ。激しい感情の爆発や揺らぎが歌われているわけでもないのに、感情の波が静かにこみ上げてくるような音楽に出会うことは、そんなに多くはない。その場にいられただけでも、今年たくさんライブに行ってた甲斐があったと思うけれど、逆に怖すぎて次行くとき大丈夫かなってなっている。
他にもたくさん
正直、紹介していたらキリがないのは間違いないんだけど、あまりライブとかで見てないものを中心に。まずはシティ・ポップ編。関西と関東で言えば、やはり最大の違いはBPMだと思っていて、関西ではBPM早めのロックがウケるのに対して、関東ではミドルテンポのシティ・ポップが、都会的な感じで受け容れられているように思う。その中でもバンドで気になったのは雨のパレードとAwesome City Club。
それから、今年という意味では外せないのはRADWIMPSで『君の名は。』のサントラに続いて1位を獲得した『人間開花』に収録されている「棒人間」のように、フォークというかボブ・ディランそのまんまみたいな方向にアレンジを広げたり、illion経由で持ち込んだようなエレクトロのアプローチも興味深かったのだけど、やはり目立ったのは野田洋次郎のソングライターとしての才能。『君の名は。』のレビューでも挙げたAimer「蝶々結び」だけでなく、さユりに提供した「フラレガイガール」でも、シンガーの声の特性やキャラクターにきちんと当てながら、野田的な世界観を表現しているのには舌を巻いた。
ほかにも気になっているバンドはたくさんあって、仲間内ではあれいいよねなんて話はしているのだけど、やっぱりこれくらいにしとこうかな。来年は今年ほどライブ行かないかもしれないけれど、もう少しだけ追いかけたい人達もいるので。