筒井先生の『結婚と家族のこれから』読了。ご本人も専門の研究者もたくさんいる中でうかつなことは書けないけれど、家族という一般には情緒の問題として理解されがちな社会関係を、経済活動の連関によって生じた現象として説明する(それによって現代的な課題も明らかにする)のは、社会科学の入門としても非常によい入り口だと思う。また一昔前であればこうした「下部構造決定論」的な手つきは、ある種の共通理解として存在していたのだろうけど、いろんな経緯があって廃れてしまっている感もあるから、僕にとっては懐かしい思いもある。
本書のハイライトはおそらく、経済問題としての「共働き家庭」を支援することが、結果的に同類婚を増やすことで格差を拡大するという逆説に目を向けるところだろう。そこで提示される処方箋は、税制度というすごくスタンダードなものだけど、もちろんギデンズの「ライフ・ポリティクス」のように政策理念で個別の処方箋をパッケージする広義の政治があってもよいし、サンスティーンのようにより行動経済学的な動機づけ(ナッジ)を頼ることもできる。その辺りはゼミなんかで読ませる先生が指示するところかな。
そして最終章あたりがやっぱりしんどいなあというところ。「ライフ・ポリティクス」がそうであったように、この種の問題を社会学で取り扱おうとすれば、価値独立的な「if~then」の政策提言では済まず、どうしても「情」の問題に踏み込んだ、なんからの価値判断を迫られてしまう。そこでは常に「~のほうがよいと思う」というBetter論と向き合わざるを得ない。
そして、自分が修論の頃からずっと直面しているのも、このBetter論が持つ危うさだったりする。Betterというのはベクトルだから、Beforeの状態からAfterの状態への移行を伴う矢印であることが多い。そうした移行が社会全体で生じるとき、それは「社会変動」と呼ばれるのだが、家族のような「情」に踏み込んだ関係/現象に大きな社会変動が生じると、そこにアノミーが生じる可能性が高くなる。
アノミーとは要するに「こんなはずじゃなかった」という感覚のことだ。自分の周囲でも学生たちは、職探しのタイミングなんかでようやく、自分が考えていた将来像がどう考えてもあり得ないものであることに気づき、強い「こんなはずじゃなかった」感に直面する。しかもそれが人によってバラツキはあれど、ジェンダーによってタイミングに差が出ることもあって、カップル間のすれ違いを生む原因になっていたりもする。
そのくらいなら当事者間でなんとかしてくださいという話なのだが、社会全体に「こんなはずじゃなかった」感が広がると、それは容易にバックラッシュへとつながる。あとがきで触れられているように、家族とナショナリズムはどちらも排他的関係を是認するがゆえに割り切ることの難しい問題だ。急速な社会変動が生み出したバックラッシュという点では、昨今の国際情勢もそういう側面があるだろうし、情報技術に対するネオ・ラッダイトだって似たようなものかもしれない。
僕がいつも頭を悩ませるのは、研究者にとってあり得べき「価値判断を伴う結論」は、場合によっては情緒的な反発の対象になり、それが理性的なものであるほどに受け入れられないという逆説を導くことだ。そこで自分の著作では、その逆説を避けるために様々なレトリックを使っているのだけど、そのこと自体が踏み込みすぎだとして非難の対象になることもある。その手前でぎりぎり抑制する、本書のようなスタンスを取れればよいのだけど、という面でもうらやましい本なのだった。
※Facebookより転載
光文社 (2016-06-16)
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