議論する、とか、意見の違いについて確認する、といったコミュニケーションには、とても体力を要するのだなあと思うことが多くなっている。オンラインにせよオフラインにせよ、自分にとって当たり前のことが、別の人にとってとてもセンシティブな話題であることを学ぶ機会が増えたせいでもあると思う。若い時分にはそういうことに臆さないことが偉いと思っていた…わけでもなく単に何も考えていなかったから、ほうぼうに恨みを買っていただろうし、そのことでいまの自分の評価に影響しているとしても言い訳はできない。
他方で知恵がついたせいもあって、明らかな間違いや、それがその人の好き嫌いの問題では済まない場合、教育上の配慮を必要とする場面においては、何かを言わなければならないこともあって、学者が一般に直面するような徒労感や失望感に苛まれることも多い。こういうときに「真-偽」のコードを用いても、相手は「快-不快」「好-嫌」のコードでコミュニケーションしている場合、「真であるかどうかより私が不快になったことの方が重要だ」と返されるのがオチだからだ。
「議論を喚起する」というコミュニケーションのあり方は、多くの人が「快-不快」「好-嫌」の問題として考えるトピックに対して、同じコードで挑戦することによって、互いに相容れない「快-不快」「好-嫌」を調停するためのメタ倫理について考えさせるという機能を果たす。そこで必要なのは、「その言い方ではメタ倫理の議論は起きないよね」とかいう背後取り=自分だけは無関係というスタンスを取ることではなく、あり得るコミュニケーションについて述べること。しかしそれは、「真-偽」のコードで話すよりずっと体力のいることなのだ。
「お前のことは嫌いじゃないけど、お前の言うことには同意できない」というべきところでつい僕たちは「お前の言うことはわからんでもないが、お前の言い方が嫌いだ」とか言いそうになってしまう。そういう感情を喚起させるために議論が持ち出されているのだから、それは致し方ない。そこで「お前がいいならもうそれでいいよ」でも、「それじゃあ相容れない僕たちは距離を置きましょうね」でもない関わり方とはどのようなものか。
逆側からの見方もある。自分にとっては必要であるはずの配慮が「そういうめんどくさいのはいいっす」と返されたときに、相手に対してしつこく「いいかどうかを決めるのはお前じゃない」と言い続けられるかどうか。それを、断絶ではなく、関わりのために言い続けられるかどうか。そもそもそういうことに対して自信もなければ明確なスタンスも持ってこなかったからこそ、大人になってこうして苦労することになるのだなあとしみじみ思っている。