時間について考える。よく「終わりよければすべてよし」というのだけど、この英訳としてたまに挙げられる” The end justifies the means”との差に、いろんなことが現れていると思う。” The end justifies the means”、つまり「目的が手段を正当化する」というのは、ニュアンスとしては「嘘も方便」というのに近くて、個人的には“Happy ever after”、つまり「めでたしめでたし」の方が、その時間感覚を言い表しているように思う。
マネジメントや経営戦略に関する本を読んでいて強く感じるのは、西欧文明における「目的」の重みだ。どんなことをやるにせよ、それは何のために行うのか、どういう帰結を求めるのかといったことを徹底的に思考する。「ミッション」という「神から与えられた使命」を、企業であれ個人であれ仕事への姿勢に適用するのも、それと関係している。要するに、自分が裁きの日に天国の門をくぐることができるか否かという目的から逆算して、すべての出来事を捉えようとするのが、西欧的な「目的」の感覚なのだ。この辺は「フランクリン・プランナー」などの自己啓発手帳でも共通している感覚だ。
他方で「めでたしめでたし」には、そうした時間感覚はない。それまでにあったいろんなことも、幸福が訪れたこの瞬間に全てチャラになるという「リセット」の感覚の方が、この言葉の意味としては相応しい。10年ほど前に「ケータイ小説」なるものが流行した頃、僕はその表現の中に「いろいろあったけど、いま」という時間のリセット感覚があることを指摘している。つらい恋もしたけど、いまの彼とは幸せ、かと思いきや次のページでは彼が死んで、でもそんなこんなも含めて一人の私、といった、過去に関する重みをすべて「いろいろ」で済ませてしまうような軽さが、そこに流れていた。
西欧的な目的論が「これは究極の目標にかなっているのか」を問う「重い」ものだとすると、おそらくは東洋的、あるいは前近代的な「めでたしめでたし」の感覚は、過去をすべて忘れてしまう「軽い」思想だ。真木悠介(見田宗介)の概念を援用するなら、前者は時間を直線として考えるヘブライズム、後者は時間を円環としてとらえるヘレニズムの思想ということになろうか。
円環の思想が前近代的で、直線の思想が近代的というのは、「発展」というキーワードを挟んでみるとよく分かる。直線の時間を単一の目的に向かって進む時間の中では、以前に起きたことは次回のための反省材料であり、現在の成功は決して慢心の許されない、いまだ改善点を含んだものとして立ち現れる。打ち上げで酩酊して過去を忘れるなどということはもってのほか、というわけだ。だからこそ直線の時間の中で人は「去年よりもいいものを」「自分はまだまだ」という想いのもとで発展を遂げてきた。
ところが、前近代社会であれば祭り、現代であればエンターテイメントといったものは、この直線の思想と非常に相性が悪い。「祭りになればすべてご破産」「エンタメはいつ行っても楽しい」という無時間的な感覚でなければ、こうしたものを楽しむことはできない。自分は去年よりも楽しめているか、と自分に問いながらエンタメを消費する人は、どう考えても多数派ではない。
昔「山の人と海の人」という文章でも書いたのだけれど、僕は円環の時間の中でも特に刹那的な、明日のことなど知ったことかという感覚で生きているから、“Happy ever after”のビジョンに強く憧れている。何かのオーラスに向けて、すべてのことが、この瞬間のためにあったのだと思えるようなラストに、それまでのことがすべて叶えばいいと思っている。いよいよ来週はツアーファイナル。次の年のことは分からないけれど、最後の瞬間に向けての準備が、着々と進むわくわく感で、朝起きる度に胸がしめつけられるような気持ちになっている。