「傷ついた人たち」の自己受容

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オンラインにあふれかえる悲鳴

2018年も、そろそろ振り返りの時期に入った。今年後半はブログも書かずに、なんならネットも見ないで過ごしていたせいで、すっかり世相からは離れてしまった感があるのだけれど、その背景には、オンラインで白熱する議論や対立に、心苦しいものを感じてしまったからだと思う。

政権に対する批判であれ、ヘイトスピーチへの糾弾であれ、あるいはジェンダーを巡る意見や立場の対立であれ、内容としては考えさせられることや、勉強になる部分は多い。それはある面では、ヒートアップしたり炎上したりしたそれぞれの言論の主たる作用なのだと思う。でも、そこで大きな声を上げる人たちの「言い分」の方に、僕の意識は引っ張られてしまった。みな、「私はその言論によって傷ついた」ということを主張したり暗に示唆したりしている、そんな風に見える。私を分かってほしい、という悲鳴のような感情に、冷静な「議論」の仮面が被せられている。そう思ったところで、どうにも距離を置かざるを得なくなってしまったのだ。

ただ、この「傷ついた私」を他者に受容(ないし承認)してほしいという感情そのものは、現代の社会における本質的で、難しい状況が突端に現れた現象でもある。僕たちはおそらく、これまでの社会で想定されていたような、当たり前に受容されている感覚(社会学的には「存在論的安心の基盤」)を欠いているとか、それが揺らいでいるとぼんやり認識し始めている。ただそれが直接の問題として言及されないために、色んなところで問題がこじれてしまう。だからここでは、今年の出来事の背景にある「傷ついた私」の受容の問題に焦点を当てて、少し論じてみたいと思う。

傷ついた自己の断片的な受容

傷ついたとき、傷つけられたときに人は、多くの場合、誰かにその傷を認めてもらおうとする。こころの傷は目に見えないから、自分ですらほんとうにそこに傷があるのか確信を持つことができない。他者に、あなたは傷を負うだけのことをされた、と認めてもらって初めてその人は、「傷ついた者」としての自己を受容することができるようになる。

自己を受容するのに他者の評価が必要になるということは、その人たちは常に、評価のすれ違いを巡るリスクに晒されるということだ。何をそのくらいの傷で大袈裟な、と言われるかもしれないし、ちょっとした泣き言のつもりが大きな心配をかけてしまうかもしれない。認めてもらえると思った人に相手にされずに、さらに傷ついてしまうことだってあるだろう。

青年期というのは一般に、家族のような親密圏を離れて自己を形成する過程で、新たに芽生えた自分の感情や社会的役割に応じて獲得したアイデンティティを承認しあう関係性を求める時期だとされる。それは家族となりうる親密なパートナーであるというのがこれまでの典型的な理解だけれど、その様相が変化してきているのかもしれない、と思うことも多い。

たとえば、現代日本の若者が、性愛に基づくパートナーを求めなくなっているという点。こうした人たちへの聞き取りを読む限り、基本的に人と関わりたくないというケースもあるけれど、むしろ目立つのは、趣味やその他の活動を通じて、広く浅く形成した関係によって充足されているので、あらためて親密なパートナーをもつ必要がないというケースだ。

たしかに僕たちの社会では、ひとりの人が関わる領域や関係性は複雑なものになっていて、そのそれぞれで、断片的な自分としてしか他者の前に立ち現れることがない、という状況になっている。そこで、たとえば会社において自分が受けている評価を、他の会社に勤めている恋人に共有してもらうのには限界があるし、趣味を共有できていなければ、そもそも承認もなにもないだろう。

実際はそのように断片化している関係性のすべてを総合し、トータルな自分として呈示した上で承認を求めようとすれば、必然的に相手にとっては負荷の高い、いわゆる「重い」要求にならざるを得ない。そうやって無い物ねだりをしてしまうくらいなら、断片的な関係のそれぞれで、その部分だけで承認の感覚を得ようとする人たちが増えてくるのも、ある意味で合理的な選択だと言える。

でもそこで問題になるのは、「傷ついた(かもしれない)」という感覚の行方だろう。こころの傷は、何かの出来事と一対一の対応関係にはなくて、たまたま別のところで厳しい評価を受けていたときに、親しい人に言われた、普段ならスルーできる何の気なしの一言で深く傷つく、なんてことがある。つまりこころの傷はトータルな自分と関係している。断片化された関係における断片的な承認が、その傷を埋め合わせるものになるかどうかといえば、非常に心許ない。

耳を傾けてくれる人がいること

そんな事を考えていた折、同業の先輩に、学者業界でのトラブルに関する愚痴を聞く機会があった。たまたまその時間があったし、「傷つけられた自分を受容すること」について考えていたところでもあったので、ふむふむそうっすかマジやばいっすね、というテンションで聞き役に。こういうときに、もしかして自分って人の話を親身に聞くのに向いているのでは? なんていうあり得ない想定をして自己効力感を高めるのも、まあ自分にとって悪いことではない。

むろん先方にしても、業界の内輪の話とはいえ、それって誰それのことですよね、というのが分かってしまうインサイダーには話しづらいトピックであるわけで、僕のように、業界は近いけど人間関係は切れているという人には話しやすいのだろうと思う。そう思うと、前のエントリで書いた「傷ついた(かもしれない)」という感覚を、「私は傷つけられたと思っていいのだ」という形で自己受容するのに、ある程度は断片化した関係性が役立つということもありうるわけだ。

ただそうなってくると、今度は受け取る側の傾聴力が重要になる。もう長いこと女子ゼミを運営してきたせいで、少なくとも僕の目には彼女たちの会話が、内容的な受容ではなく、「そうなんだー」「ひどくない?」「ウケる」などのテンプレ的な言葉を返しておくことによって、互いに「しんどい」距離感に陥ることなく、その人にとって意味のある自己イメージを共有するという技法を駆使したものであるように見える。それを「無意味な会話をしている」と思う人もいるかもしれないけれど、一歩引いた目線で考えると、そういう会話だからこそうまくいくことはある。

けれど、その距離感の会話は、文字通りこころの距離感をきちんとコントロールして、線を引ける間柄でないと成立しない。親身になってアドバイスしたくなったり、その人の辛さや悲しさを自分がなんとかしてあげたいと思ったりしてしまった瞬間に、話を聞く側のこころのバランスも崩れてしまう。「聞くだけなら構わないよ」という距離感で、しかも何ら前向きでない愚痴を聴いてあげられる間柄でなければ、断片化された関係でも傷ついた自己を受容できるようになることって難しい。

僕たちの常識では、そうした関係を「親しい友だち」と呼ぶ。そしておそらく親友こそ、現代に生きる人々が、得ようとしてなかなか得られていないものであると僕は思う。その理由は、ひとつには関係性の流動化が進んで、ちょうどいいぐらいの深い間柄になるまでの時間を共有したり集団の同一性を保持したりできないこと、もうひとつは、「一定程度以上に親密にならない」というのが、どうやって可能になるのか、誰にもわからないことにあると思う。

「無限の自己受容」への欲求

近年の社会学理論は、基本路線として、僕たちがこうした断片化された関係性に開かれていくことを肯定し、また不可逆な近代化現象だと考えてきた。そしてそれが不可逆であるだけでなく、多様性に対して寛容で、リベラルな社会を作るのに役立つという規範論的な立場もとってきた。そして僕自身は、そうした想定に対して一貫して批判的な立場で、自身の理論的な探求を進めている。

というのも、断片化された関係へ開かれていくことが不可逆な現象であるならば、それに適応できない人々は、不寛容で、排他的で、意固地で、リベラルに対して反対する「遅れた/弱い/悪い人びと」であるということが、論理的に帰結されてしまうからだ。こうした「社会学リベラルマッチョ」の論法は、社会が多様な領域でつながり始める、現代的なグローバリゼーションの初期には、ひとつの未来の展望とともに、ある程度まで肯定され、歓迎されるフシもあった。けれど2018年の現在、日本のみならず世界の各地で、こうした「広がり、つながり、寛容になること」に対する不信や不安が広がっている。少なくとも、多様性に対するリベラルな寛容を目指すのであれば、「社会学リベラルマッチョ」的な論法は、見直されなければいけないものになっている。人は、そこまで強くないのだ。

大きな課題になるのは、断片化された関係性における、自己受容のかけらだけを集めては生きられない人びと、つまり他者に対して無限の自己受容を求めてしまうような「重い」人びとをどうするのか、ということだろう。SNS時代には、オンラインですら、そうした「重い」自己受容を求められて、いやいやしんどいっすとか、その相手は自分じゃないでしょとか言いたくなった経験を持つ人も多いだろう。

おそらくそれは、マクロにそうした人びとを包摂する仕組みが作用している限りにおいて、ミクロな場面での「拒絶」もありうる、という構造で理解されなければならない。ではそのマクロな取り組みにはどのようなものがあるのか? 最適解は、世代やジェンダー、あるいは置かれた状況によって異なるだろう。若い人たちの話を聞いていると、彼ら彼女らの「サブ垢」に関する感覚は、ひとつの解決策なのだろうなと思う。彼らは自分のネガティブな感情を「病み垢」に吐き出すことで、病んだ感情だけでつながりあうことを可能にしており、それゆえに本垢では「キラキラ」な自分の姿を見せ続けることに成功している。あるいは、たとえSNS上に元恋人との記録が残っていたとしても、そういうことには踏み込みたくないという。どちらも「人格を全面的に受容し合うのが深い関係なのだ」というこれまでの僕らの常識からすると、「浅い」関係のように見えるけれど、たぶん方向としてはこうならざるを得ないのだろうと思う。

だが、そうやってオンラインで関係性を断片化して調整することに不向きな人や、あるいは世代的にそういう経験をしていない人たちでは、きっとそうはいかないだろう。たぶんそうした人たちは、対面の場面で集まって、その場を楽しむような経験をしたり、場合によっては社会参加のための市民活動や政治活動に向かったりするだろう。その動機がたとえ「傷ついた私たちの相互受容」にあったとしても、そしてたとえばそれがある種の排他性を帰結するのだとしても、問題を人びとの行動の水準ではなく、行為の意味を「理解」し、別の文脈へと水路付ける取り組みに向かわなければならない。それは、たぶん社会学ができる、かなり重要な市民への貢献であるはずなのだ。