雑記20190304-02

2冊目に手にとったのは、ジグムント・バウマンの遺作となった『退行の時代を生きる――人びとはなぜレトロピアに魅せられるのか』。バウマンの著作にはいつも独特の癖があり、またそれゆえに読解の難しいものであるのだけど、今作も非常に頭を使う本だった。

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なぜバウマンの著作は読みにくいのか。それは、まず彼の記述がリニアではない、言ってみれば思いつきの羅列にすら見えるような、散漫なものだからだ。それは彼自身が実証主義的社会学者ではなく、多くの人々のアイディアをつなぎ合わせ、その隙間からまだ語られざる理論的パースペクティブを導き出すような「社会診断家」としての著作をあらわすようなタイプの研究者であることと切り離せない。それは学問じゃない、と切って捨てるのは簡単だし、僕も「それは流石に踏み込み過ぎでは」と思うような記述に出くわすことも多かったけれど、一方で「そういう見方か!」「そこに注目するのか!」「それがつながるのか!」といった、社会学の著作がもつ重要な魅力に満ちているからこそ、ここまで受け入れられてきたのだということも感じる。そもそも、僕の社会学的な記述のモデルじたいがバウマンに強く影響を受けているものだし。

本の主題は、「レトロピア」つまり、過去を懐かしんで以前の時代に戻ろうとする大きな傾向であり、それを4つの「退行現象」として示している。章立てに沿って説明すると話が前後するので、ここでは僕なりに抽出したかたちで述べてみよう。

まず「見知らぬ人との協働によって成り立つ社会から、見知った同族との関係で成り立つ社会への回帰」。近代という社会は、いわゆるムラ社会における包括的協働関係を離れ、機能的に分化した社会における限定的な他者との関係と、それを支える「公共性」という理念によって営まれてきた。現代において生じているのは、公共性に基づく他者との協働ではなく、「あいつら」とは異なる同族との関係を重視する傾向である。

その背景にあるのは、公共性の重要な根拠であった国民国家のゆらぎである。2番目と3番目の退行現象が、それに関連する。すなわち、現代の国家は、国民国家の成立条件である「国民・政府・領土」のいずれの面においてもゆらぎに直面している。バウマンが特に重要視するのは「領土」のゆらぎだ。たとえば戦争であれば、かつては国境防衛こそが国防の重要な要素だったが、現代の戦争の戦線は、物理空間からサイバー空間まで、また市民の生命・財産だけでなく、あらゆる生活基盤までも防衛せざるを得ないものになっており、何が「公共的」なものの範囲であるのかが非自明化している。言い換えれば「万人の万人に対する闘争」が戦われるようになっている。

もうひとつ、公共性のゆらぎがもたらすのは「国家は誰を守るのか」という福祉のゆらぎだ。トリクル・ダウンという理念にもとづき、一部の富裕層が経済成長を牽引するように促すことが、結果的に彼らへの「奉仕(サービス)産業」を支えることになるという現代の経済体制においては、「国民を等しく守る」といった従来型の福祉国家の理念は通用しない。むしろ「守られるべき度合いが異なる」ことが、成長とトリクル・ダウンの条件になる。「持たざるもの」の不満はそれによって高まるのだが、興味深いことにバウマンは、それが、たとえばベーシック・インカムのような手段で解消される可能性に懐疑的だ。彼はその根拠を明示していないが、ここまでの記述から読み取れるように、人びとが望むのは「自分たちが守られること」であって、「人が等しく守られること」ではないのだ。

最後に、こうした状況にあって、人が人であることから退行する、というのがバウマンの見立てだ。正直、僕にとってもっとも面白く、またバウマン先生さすが!と言いたくなるのが、この「自己」に関する記述である。

先んじて整理しておこう。ムラ社会の同質的な関係を離れ、機能分化した社会に適応する中で人びとは、公共的な存在であることだけでなく、親密圏を形成することで、自分のことを深く知っているごく小数の人との関係性の中から、情緒的な安定を得た。さらに特に第二次世界大戦後の先進諸国においては、公共圏と親密圏を支える条件として「消費」が登場してくる。よい車に乗っていること、よい地域に住んでいることは、公共的に「ひとかどの人物」であることの証明であり、またより多くの人から「親密になりたい」と思われるための条件でもあった。

バウマンが注目するのは、20世紀の消費を牽引してきたのが「相対的剥奪」感にもとづく不全感と、それがもたらした消費への幻想だ。大企業の社員は中小よりも所得が高く雇用が安定している、だからそのような立場にアクセスできれば、よりいい暮らしができるのだ、という「信仰(つまり幻想)」は、20世紀における階層上昇の重要な動機を提供していたわけだが、そこで鍵になるのは、人びとが大衆消費という同じモノサシを共有しており、またそれゆえ、「上層」の人びとに対する相対的な剥奪感を抱くことができたという事実だ。

既に述べてきたような公共性や国家福祉のゆらぎ、そうした状況の中で「万人の万人に対する闘争」をサバイヴしなければならない現代の特に若い世代は、最初から「負け」ることを決定づけられている。実際に多くのデータが「これから未来が良くなる」と若者が考えなくなっていることを示しているという。そのとき、相対的剥奪の感覚はもはや単なる「負け」を示すサインでしかない。

しかも、ソーシャルメディアの広がりによって、この剥奪感をおぼえる環境は、自分の身の回りだけでなく、あらゆるところに拡散しつつある。もし自分が都会に生まれていれば、もし自分の見た目がもっと美しければ、もし自分の家にもっとお金があったら、そういう剥奪感に直面する機会が増えれば増えるほど、人は人と比較される状況から退行し、他者と関係することそのものを忌避するようになるのではないか、バウマンはそのように考えている。

特に処方箋や話のオチがあるわけではなく、また社会問題の謎解きのようなカタルシスもない。なんなら実証的データでこうした傾向が裏付けられているわけでもないから、きちんとしたアカデミアの審査にかかれば、彼の議論は「ごく特殊な事例を過剰に一般化した、問題だらけの社会診断」ということになるだろう。他方で、そうした特殊事例の中に見えてくる人びとの情念であるとか、よりミクロな状況で「なぜそのような行為を選ぶのか」といった疑問を「理解」しようとするときに、彼の見立ては強い社会学的想像力を刺激する。

僕が強く思ったのは、最近「ひとりイノベーション」という言い方で表現している傾向だ。世界には期待できない、会社は自分を守ってくれない、それどころか新しい取り組みの足を引っ張ることしかしない。だから僕たちはそういう組織や集団に期待することをやめて、一人でサバイヴできるように、様々なことにスタンバイしておくべきなのだ――いわゆる「意識の高い」層の支持を集めがちなこうした言説が、ここでいう「ひとりイノベーション」なのだけど、バウマンの見立ては、こうした人びとが支持を集める理由の一端を説明しているように思う。

たとえば、ひとりイノベーションの生き方の例として、人気のユーチューバーを挙げてみよう。彼らは、何かの専門家として、専門知識や技能を披露することもあるけれど、多くの場合は、「今日はこの商品、明日はこの商品」という形で、インフルエンサーとして様々な商品に関わることで、次々と目新しい動画を投稿している。ひとつの技能にすべてを賭けることがリスクになる社会においては「あれも、これも」と軽やかに移り変わり、こだわりを示さないことが重要になる。

もうひとつ、インフルエンサーの人びとの示す、時に過剰なナルシシズムが支持されることも、ここから読み取れるように思う。彼らはときに「炎上」した際に、自分が批判を受けた理由を客観的に見つめたり、批判する相手と対話したりするのではなく、「なぜ自分はこうなのだろう」「自分はどうしたいのだろう」という自問自答を始めてしまう。そして多くの場合、自己完結したまま「次の商品」へと移っていく。かつての社会においては不誠実とされたこうしたふるまいも、他者との比較や、それを前提とした社会の中での立ち位置に苦しまなければならない人にとっては、ある種の「強さ」として映るのではないか。

もちろん彼らの「身軽さ」も「強さ」も、商品社会が前提になっているということには注意しなければならない。結局のところ現代のセレブリティは、こだわらないこと、すぐ捨てられること、他者と比較しないことを信条としつつも、サバイヴのための条件として「お金で買える商品」に依存することからは自由になっていない。

この話はきっと5月に出るはずの新刊で論じるのだけど、もうひとつ、バウマンの示唆することとして面白いのは、解消不能な剥奪感に直面した人びとが「親密性」になにを期待するのかという問題だろう。これについては、その一部を3月のオープンキャンパスで話すつもりだけれど、時間消費や、「ほんものの自己」の問題と絡めて、今年の大きな研究課題になりそうな気がしているので、もう少し時間をかけて深めていきたいところ。