雑記20190306

雑記

今日は、デボラ・チェンバース『友情化する社会』を中心に、友人関係や親密性についての文献をいくつか読み通す。オープンキャンパスの準備のつもりだったのだけれど、結果的に色んな所に考えが広がることになった。

https://amzn.to/2SHfKr6

これまでの社会学では、個人の人生が共同体に埋め込まれていた前近代的な関係から人びとが「脱埋め込み」され、選択性が高まったことを大前提に、社会関係を論じてきた。ひとつの典型が市民社会論や公共性論であり、他方が親密圏、とりわけ家族についての研究だ。友情はこれらの研究動向の中で、やや市民社会論や公共圏における連帯の問題として扱われてきたのだが、本書はむしろ、親密圏の問題としての友情を軸に考察を行っている。

友情が公共圏ではなく親密圏の問題になるとはどういうことか。一言で現すなら、友情が公平性から特異性の問題になるということだ。つまり公共圏における連帯として想定されている友情は、「私たちはみな仲間なのだから、互いを信頼し、支え合うべきだ」という理念に基づいているが、親密圏における友情は「あなたは私にとって、えこひいきすべき特別な存在である」という関係性を構築することを目指している。

こうした観点から友情を捉えるとき、そこには様々な論点が派生する。たとえばケアの問題。これまで高齢者介護や、あるいは単なる「寂しさを埋める」という意味での孤立の回避については、親密圏におけるケア(家族や恋人によるもの)か、公共サービス(福祉サービスや話し相手のボランティアなど)によって手当てされるものだとみなされてきたが、友人関係が、そのケアの一部を担う可能性が出てくるということだ。

一方、それはまさに「公平性」の問題をも投げかける。筒井淳也が何度か述べているように、「友だちに優しくしてもらいたい」という欲求を多くの人が抱いていたとしても、実際に友人から手を差し伸べられるかどうかについては、人や環境によって大きな差がある。友人に恵まれないというだけで、社会的に必要なケアの一部を享受することができないとしたら、それは大きな社会的不平等を招くが、しかしながら友人はケアサービスのように、お金で買ったり、分配したりすることができない。

また、友人関係を築くということそのものにも、大きな課題がある。ギデンズが述べるとおり、友人関係を築くには、自己開示を通じて関係を深めるプロセスが必要になる。ところが、そもそも共同体的関係から脱埋め込みされている僕たちにとっては、開示されるべき自己がどのようなものであるかということすら、その人の選択の対象になる。SNSなどのデジタル化されたコミュニケーション手段の普及が、その選択性をさらに高めている。

ここにおいて友情は、かつてあった規範、すなわち「私の知らなかった部分や隠したい欠点まで知っている相手との間に育まれる絆」から、「私のことを私が見てほしいように見てくれる、私が選択した相手との関係」を意味するものに変化することになる。もっと言えば、友人は「自己の語り直し」を支えるための資源になる。「ほんとうの私」についての自己開示を受け止め、社会関係の中に固着させる相手が友人だというわけだ。

それが恋人ではだめな理由は、僕たちの築く社会関係が流動的になっていることと関係している。ある環境において開示された自己が、別の環境に移ることで「にせものの私」になるということはままあることだ。就職活動を通じて「子どもの自分」と決別し、大人としての自覚を抱くようになった学生が、それまで自分のことをよく知ってくれていると信じていた恋人との間に距離感を覚えるようになるという、「内定出た学生カップル別れがち現象」なんかに典型的に見られるものだろう。

友人関係はその意味で、移り変わる自分自身の「ほんもの」性を受け止める相手にもなりうるし、そもそも友人関係じたいが、その相手も含めて変化する。また、自己開示を通じた自己イメージの安定化を求めているのは相手も同じだとすれば、そこで友情に求めるものは、まさに「いい感じに素を見せられる一方、都合の悪いところには踏み込まない」という距離感の関係になるだろう。

『ウェブ社会のゆくえ』という本で僕は、こうした親密性と選択の問題について、さらにデジタル化されたコミュニケーション手段がもたらす空間的な混乱について論じているのだけれど、おそらくその次に問題にしなければならないのは、時間的な継続性の問題だろうと思う。大学生の自分と社会人の自分は異なるのだから、ふさわしい友人関係も違うとか、自己開示したいイメージによって付き合う相手を選ぶという話と、公共サービスとしてのケアの衰退を補完する可能性を持つ友情というイメージは、多くの点で緊張関係をもつ。友情は、今後ますます断片的で場当たり的なものになるのか、それとも、そうした断片化を乗り越えて継続されるものを「ほんもの」の友情と呼ぶようになるのか?

時間という点で言えば、「独占」の問題もある。時間が断片化され、ひとつの場所に長いこと留まって過ごすことが減ってくる(つまり流動化する)社会においては、自己開示を伴う友情を深めようとすることは、必然的にその相手と長い時間を過ごすことを要求する。言い換えれば「互いに時間を独占する」ことが必要になる。それは、同時に複数の人とコミュニケーションが可能なSNSなどでも同じだ。終わりの見えないチャットのやり取りだとか、あるいは深い自己開示のために長文を入力するのにだって、それなりの時間がかかるはずなのだ。

友情や親密性に関する最新の研究動向は、おそらく再帰的近代と呼ばれている僕たちの生きる社会の現象を分析する、非常にクリティカルな論点を多数含んでいる。できることなら19年度のサブゼミ的なもので少し知見を深めたいところだけど、まずはオーキャン向けにこの話を噛み砕かないとな。

タイトルとURLをコピーしました