官僚制の罠

入試関連のお仕事というのは、分析対象としてとても面白い。合理化の極みのようなマニュアル化が徹底されている一方、明らかに不合理に見えるのに、なぜそのような仕組みになっているのかを誰も理解しておらず、改善の余地もないまま、どこからか現れるマニュアルに書いてあるからという理由だけで、大の大人が粛々と従ってしまう。官僚制だとかホロコーストだとかをこれほど真面目に研究してきた社会学者でさえも、だ。

僕はどうしてもそういうものを面白がってしまうタチなので、すぐ茶化してしまうし、昨日もその意味ではかなり不真面目な、緊張感のない態度をとってしまい、後で強く反省した。たぶん学生にそういう人がいたら、ふだんの僕なら許さなかったろうし。

難しいなぁと思う。僕がこの仕事をまがりなりにも続けようとしているのは、真面目に決められたことに従って生きていかないと未来はないんだ、そういうルールを守れない人は処罰して排除して浄化すればいいんだ、という考え方とは正反対の理想をもつことを許されているからだ。けど、いつの頃からか、自分が決まりを守らせる側に回ることが多くなって、ずいぶんと窮屈になったように思う。

その理由ははっきりしていて、要するに誰か1人のクリエイティビティではなく、チームによる協働の結果としてのクリエイティビティを重視するようになったからだ。そこでは変人かつ天才の独裁と、その周りでカリスマの気持ちを忖度して動く付き人のような関係ではなく、互いが自分のできないことを担う人に対する敬意をもって接し、発想力やリーダーシップを担うのでもない人も、自分が何かを生み出すのに貢献したという意識を持っている。

この数年、そちら側の理想に軸足を置いて考えすぎているなぁとは思う。それが行きすぎてしまうと、ちっともクリエイティブでないのに、ルールだけが残り、それを守ることが自己目的化され、まさに入試と同じ官僚制の罠に陥ってしまう。かといって、クリエイティブであることと、自由な発想を広げるために傍若無人に振る舞っていいというのはまったく違うから、自由にさせればいいというわけでもない。ではクリエイティブでありながら、チームの力を活かすためにはどうすればいいか?

その答えが分からないから毎年トライアルを続けているわけだけれど、そろそろ自分の気持ちは、発想の羽根を自由に伸ばすほうに向きたがってるのだなと思った。こういうときはどんどん周囲を置き去りにして意味不明なことを言いだすから、その自覚は持たなきゃな。