料理と翻訳

料理について考えていると、「文化とはなにか」という根本的な問題に突き当たることが多い。

特に昨年、あいちトリエンナーレで見た永田康祐さんの「Translation Zone」という展示を見てからは、そのことについてずっと考えている。この展示、春には東京でも見られるらしいので、そのときはぜひ行きたいなと思ってるんだけど。

東京・六本木の21_21 DESIGN SIGHTで、情報学研究者のドミニク・チェンがディレクターを務める「トランスレーションズ展 ―『わかりあえなさ』をわかりあおう」が開催され…

展示の内容を振り返ると、「言語を翻訳する」という出来事と、「料理を翻訳する」という出来事の相同性を指摘しつつ、その翻訳の形態に3種類あって、それぞれが独自の文化的様相を示すというものだったように記憶している。

ひとつは、「似たようなものを無理やりくっつける」というタイプの翻訳。Google翻訳のシステムがこれにあたる。たとえば「パッタイ」を「タイ風焼きそば」と翻訳したり、「ナシゴレン」を「炒飯」と同じ料理だとみなしたりする、というものだ。

このタイプの翻訳には、異文化を結びつけるという利点もあるけれど、翻訳の根拠は「人々がそう思う=たくさん検索する」ということでしかない。Google翻訳の結果がひとつの国によるハッキングで容易に変わってしまうように、不安定な結びつきでしかないのだ。

ふたつ目は、「科学的に同じなら同じとみなす」というタイプの翻訳。これは近年、「分子ガストロノミー」と呼ばれる分野で流行していて、たとえば表面を中心に加熱したかたまり肉のスライスは「ローストビーフ」と呼ばれるが、これは本当に肉をローストしなくても製造可能だ。

みっつ目は、「人間の営みが生み出す翻訳」だ。作中ではシンガポールの英語(シングリッシュ)と、当地の文化的混交が生み出す複雑な料理を並立させて論じている。あるいは、「ライスヌードル(フォー)がないから、かわりにうどんで作ったパッタイ」や、それがオンラインレシピとして拡散されていく様子が、肯定的に論じられている。

なるほどなあ、と思う一方で、現実の「オンラインでの文化的混交」は、そういう事態を既に超えてしまっているようにも思う。

たとえばいま僕は、今年きっとブームになると信じている「北アフリカ料理」について調べている。モロッコやアルジェリアの料理は、スペインやフランス、そして中東の料理の影響を受けた非常に複雑な味で、特にコリアンダーとセロリ、そしてパプリカの風味が特徴なのだという。オンラインにも、有名な料理研究家がモロッコ料理を作る動画がアップされている。

ただ、と思うのだ。僕も含め多くの人は、北アフリカを訪れたことがない。

訪れたことがないのだし、そもそもネットで見ただけのレシピなのだから、そこで作られるのはシングリッシュと同じか、それ以上にミクスチャー化された「北アフリカ料理」だ。いや、そもそも僕たちはイタリアに行ったこともないのにイタリア料理を作るし、中国に行かずに「本場中国料理」を日本で食べている。当然「北アフリカ料理」だって、イスラム教徒が食べることを想定して作られているかどうか、ほぼ気にすることはないだろう。

つまりレシピが歴史や気候風土、文脈を離れて「情報」として拡散する時代には、それが文化的混交を経験するとともに、そのミクスチャーこそが「ほんもの」だと理解され、消費されるという事態が生じる。それどころか、人々はそのミクスチャーから夾雑物を取り除いた「純粋なほんもの」を求めて、その知識や経験による卓越化を図ろうとする。むしろミクスチャーを日常的に経験しているからこそ、ミックスされない「ほんとうのルーツ」を求める動きが強くなる。これは料理に限らず、アメリカで流行しているルーツ・ツーリズムなどにも見られる傾向だ。

もしかすると、ミクスチャーこそをルーツと誇るような、そういうプライドがあってもいいのかもしれない。ただ、ミクスチャーがありふれてしまったからこそ、そして容易にコピーしたり魔改造したりすることができるからこそ、人は「真正のもの」にたどり着こうとする。新しい料理をつくるときに、そのどちらを目指すのか、いつも悩んでいる。