卒業生へのメッセージ 2020

雑記

卒業生の皆様、このたびはおめでとうございます。 

本来であれば「卒業証書授与式」はゼミ単位で執り行うことになっているのですが、今年は卒業に関する様々な行事が中止となりましたので、このような形でお祝いすることになりました。残念な気持ちの方も多いと思いますが、どうぞご容赦ください。 

水が変わるということ

「思い出と、友達と、卒業証書以外のものを手にして卒業する」ことが、このゼミの目標だと、ゼミ募集のときから何度も話してきました。今日は最後に、その話をしてみたいと思います。 

3年生の夏合宿の際に「水が変わる」という話をしました。デヴィッド・フォスター・ウォレスの『これは水です』というスピーチを引用して、みなさんが、自分を取り巻いている「水」、つまり日々、当たり前だと思って過ごしている環境や考え方の存在を自覚できるようになることが、このゼミの学びにおいてもっとも重要だということを述べたはずです。 

若いおサカナが二匹、
仲良く泳いでいる。
ふとすれちがったのが、
むこうから泳いできた年上のおサカナで、
二匹にひょいと会釈して声をかけた。
「おはよう、坊や、水はどうだい?」

そして二匹のおサカナは、
しばらく泳いでから、はっと我に返る。
一匹が連れに目をやって言った。
「いったい、水って何のこと?」

デヴィッド・フォスター・ウォレス『これは水です』阿部重夫訳、田畑書店

そのとき、僕はこうも言いました。普段とは異なる環境、価値基準の中に身を置くと、そこから元の場所に戻っても、自分の周りに「水」があることを意識せざるを得なくなってしまう。だからこそ「この世界には、違う水の場所がある」という事実に触れることは、それだけで価値があります。 

今日皆さんにお話したいのは、その「水を意識する」ということが、いつまで続けられるのかという話です。 

実は、先ほど紹介したスピーチの中で、水を意識すること、自分の中の「初期設定」を疑い続けることをアピールしたウォレス自身が、2008年、46歳のときに自殺しています。 

他人のことは、簡単に推し量れません。でもこんな話を聞いてしまうと、人によっては訝しむ向きもあるでしょう。 

「そんな風に、自分のいる環境について自覚し続けることは、果たして幸せなのか――?」と。 

水に馴染む

「水」という比喩は、日本語の世界ではよく用いられるものです。「水が合わない」とか「水に馴染む」とか。そして、生活環境や職場が変わるときに「水に馴染む」ことは多くの場合ポジティブなことだと捉えられています。ですから、これから皆さんが入っていくだろう環境においても、周囲の先輩や上司は、皆さんが早く「水に馴染める」ように、様々なことを取り計らってくれるはずです。 

(中止になるかもしれませんが)新入社員の歓迎会や懇親会、そういう場で新人が任されるスピーチ、社内Slackでのちょっとしたコミュニケーション、職務上の研修、その中でも、たとえば経理書類や日報メールの書き方のような細かいルールのひとつひとつが、「もう自分は大学という水の中にはいないのだ」ということを意識させ、「はやくこうしたことが当たり前だと思えるようにならなければ」という焦りを生むこともあるでしょう。 

特に重要なのは、そのプロセスで繰り返される、無意味な儀礼です。 

社訓と社歌をそらんじることができるようになるまで練習しましょうとか、みんなで富士山に登りましょうとか、新人は忘年会の幹事をしましょうとか、営業案件が成立したり同僚が目標を達成したりしたら拍手しましょうとか、月曜日の定例ミーティングのあとには部署でランチしましょうとか、金曜日はノー残業デーにして社内バーで飲みましょうとか。 

はっきり言って、こうした取り組みの大半は、業務とは直接関係のない、無意味なものです。 

ではなぜこうしたことが行われるのか。それは「無意味なものを当然のことだと受け入れる」ことが、「水に馴染む」ということそのものだからです。 

いや、無意味ではないのだ、という人もいるでしょう。職場におけるコミュニケーションと一体感は職務遂行上、とても重要なもので、それを成り立たせるためにインフォーマルな場を共有する必要があるのだと、組織論の授業で聞いたかもしれません。理不尽な部活でのルールや、参加が強制されるサークルの飲み会だって、実際にそれをやらせる側に回ると、それなりに意味があったことが分かった。だから会社のルールにだって、なんらかの意味があるはずだと。 

確かにそうかもしれません。ですがここで重要なのは、そうした「隠れた意味」があるのだとしても、それが隠されたままになっているということなのです。 

儀礼としての社会

社会学者のアンソニー・ギデンズが、あるアフリカの部族に関する研究を引用して、面白いことを述べています。社会学では「顕在的機能」と「潜在的機能」といって、ものごとには、それが直接果たす機能だけでなく、隠された機能があると考えてきました。たとえば「雨乞い」であれば、顕在的機能として自覚されているのは「雨を降らせる」ということです。ですがそれで本当に雨が降るわけではないから、顕在的機能が果たされるとは限らない。けれど、人々は雨乞いの儀礼を通じて、村落共同体の一体感を得ることができる。それが雨乞いの潜在的機能なのだと。 

ギデンズが注目するのは、実はこの「潜在的機能」が、ムラの成員にとっても自覚されているものだということです。 

具体的に彼が上げているのは、村の男が仕留めた獲物を、他の男たちが侮辱し、また仕留めた者も謙遜するという伝統です。一見するとこれは無意味な儀礼のように思えますが、部族の偉い人は、それが大きな獲物を仕留めたことで村の男が調子に乗るのを防ぐための機能を果たしていることを説明します。つまり、儀礼の潜在的機能について彼らはきちんと自覚しており、その上で儀礼を伝統として継承しているわけです(「ポスト伝統社会に生きること」A. ギデンズ、U. ベック、S. ラッシュ『再帰的近代化』而立書房)。 

先ほど挙げた数々の無意味な取り組みは、言ってみればこの「儀礼」から「潜在的機能への自覚」が欠落したまま引き継がれているものだと言えます。というよりも、「これにはどんな意味があったのか」について疑うことなく、その場の水に馴染ませるために、種々の儀礼が行われている。だから後にそれを引き継いだ人は、もしかすると存在したかもしれない潜在的機能について知り得ず、その結果「そういうことになっているのだから、文句を言わずに従え」という形でしか、それを継承することができないのです。 

儀礼が剥奪されたあとで

2020年の春、僕たちは、こうした取り組みが「内実を欠いた儀礼」でしかなかったことを、多くの場面で目の当たりにしています。 

満員電車に揺られて朝礼に間に合う時間に出勤することも、資料を読み上げるだけの会議で眠気と戦い続けることも、あるいはそうやって眠そうにしている社員を前に資料を棒読みすることも、飲み会の上座・下座を気にすることも、年度替わりに歓送迎会を開くことも、その際に主賓に花束を渡すことも、「皆様の益々のご発展とご健勝を祈念して乾杯」することも、「ないと困る」と思っていたけれど、そうでもなかったことが明らかになりつつあります。 

なぜ「ないと困る」と思っていたのか。それはこうした一連の儀礼やルールが、それを実行する人間にとって「これにはなんの意味があるのだろう」という疑いを抱かせず、自分の頭で考える力を奪うものだからです。自分の頭で考えたことがないから「なくなると困る」と思ってしまう。 

今回、このような形で皆さんをお送りするのは、楽しみにしていた方々のことを思うと心苦しいことです。ですがなくなってみてあらためて気付かされることもあります。なぜ卒業式が必要だったのか。なぜ袴をレンタルして、夜はイブニングドレスに着替えて過ごさないといけないのか。なぜ卒業証書を教員から授与されないといけないのか。どう考えたって利用するのはお金を払えば何枚でも発行できる「卒業証明書」のほうであって、1枚きりしかない紙切れのほうではない。まして、その紙切れがあろうとなかろうと、皆さんの頭の中に残った数々の経験や知識は失われたりしない。 

ではなぜ、卒業式を行う必要があったのか。 

もしかすると卒業式こそ、「やることになっているから、なくなると困る」という儀礼のひとつだったのかもしれません。僕たち教員にとってこういう場は、卒業生を感動させ、学生にいままでありがとうございましたなんて言われて悦に入るための行事であるのは確かだし、そういう面ではなくなると教員が寂しい気持ちになりますが、逆に言えばその程度の意味しかない。皆さんも、卒業後にも会いたいと思う人にはきっと会えるし、これを限りにもう会わなくなる人とは、別に最後だけいい顔をしてさよならしたって仕方がないでしょう。 

いま考えなければいけないのはそういうことではありません。「なくてはならない」という思い込みを疑い、「なくてもよかったのかも」という考えに至るだけでは不十分なのです。 

いまはまだ「卒業証書の発行なんてオンラインでよかったじゃん」「ビデオ卒業式でも別によかったじゃん」という段階だと思います。あるいは「あるのが当たり前だと思っていたから、なくなって残念」という人のほうが多いかもしれません。ですが早晩、「あれにはあれで意味があったのかもしれない」という揺り戻しがきます。「学校」という存在じたいがそうでしょう。「学校には行くのが当たり前」ではなく「大教室講義なんてビデオ中継で十分」という段階がやってきて、その後にようやく「教室に集まって授業を受けることの潜在的機能」がなんだったのかを意識せざるを得なくなる。僕たちがこれから考えなければいけないのは「すべてが無意味だったわけではないとすれば、本質的に意味があったのは、どういうところなのか」ということです。 

違和感を持ち続けるということ

そこで必要になるのが、それまでの日常生活において、どの程度「違和感」を持っていられたかということです。 

冒頭で述べた「水の存在を意識する」というのは、要するにそういうことです。 

「みんながそうしてきたから」「先輩・先生にそう言われたから」「いままであった通りに自分も従わないと不安だ」、そんな風に考えている人は、卒業式や歓送迎会がなくなったことがただ残念で、またそれによる弊害が明らかになったとしても、「やっぱり前のほうがよかったんだ」としか考えることができません。 

逆に「こんなものに意味なんかないでしょ」と思っていた人は、以前の仕組みでうまくいっていたことがうまくいかなくなっても、「時代に乗り遅れた連中が悪いのであって、そいつらの意識が変われば万事解決なのだ」と考えてしまい、自分は悪くない、状況が変わらないのは周囲のせいだと言い出すかもしれません。それは、もともといた水が自分に合わなかっただけで、自分の居心地のいい水から出ようとしないという点で、他の人と変わらないのです。 

ある水の中にいながら、それが水であることを意識し、「なぜこれはこうなっているのだろう」と考えていられた人だけが、それまでの取り組みから潜在的機能に当たる部分を抽出して、その時の状況に見合った仕組みを発想し、提案することができます。そして、あらゆる社会科学は、その「水」の存在を可視化する営みですが、とりわけ社会学という学問や社会学部での学びこそ、「水の中にあって水を意識する」ものだということを、卒業するみなさんは理解してくれていると信じています。 

「思い出と、友達と、卒業証書」以外に、僕ら教員がみなさんに手渡すことのできるもの。それは、水の中にあって水を意識するという「違和感」です。その違和感は、ときに皆さんにとって「うまく周囲に馴染めない」という苦労をさせるものになるかもしれません。あるいは社会学部での学びを「思い出の1ページ」としてアーカイブすることで、これから飛び込む水の中で水を意識せずに済むように生きていくほうが、気持ちの上では楽になるかもしれません。 

ですが、もう一度1年半前に戻って考えてみてください。そして、みなさん一人ひとりが書き上げた卒論のことを思い出してください。そこでみなさんは、論じるまでもなく当然だと思っていたできごとを対象化して考える過程で、それまで当然に見えていた風景が、前と同じように見られなくなった経験を何度もしてきたはずです。一度「自分の周りに水がある」ことを意識してしまうと、それは折に触れて自覚されるものになり、どうしようもない違和感として、皆さんの心にもやもやとした感情を呼び起こします。周囲の誰もがそれを意識していないからこそ、それが感じられる自分だけが周囲から取り残されたような気持ちになるのではないかと思います。 

違和感のある場所から

この卒業メッセージをもって、皆さんは大学生ではなくなり、このゼミの「卒業生」として、既に卒業された先輩たちや、これから学びを深める後輩たちと関わっていく立場になります。僕が皆さんに仕事として関わるのはここまでですし、正直なことを言えば(例年と同じように)たいへんな苦労もしたので、もういい加減卒業してくれという気持ちも強いです。ですから、これからのことはこれからのこととして、それぞれが自分の頭で考えて、行動してもらえればと思っています。 

ただ、もしも、そうした日々の生活の中で、どうにも拭いがたい違和感を覚えることがあったら、そのときはどうか、同期、先輩・後輩といったゼミのネットワークを利用してください。その人たちはみな、このゼミを経験している限りにおいて、なんらかの違和感をもって大学生活を過ごし、自分だけは違うレベルからものごとを見るのだと意気込んでいた時期があり、志を同じくする人と共通の経験をする中で、先ほどらい述べている「違和感」を共有する間柄になった人たちです。その人たちならきっと、皆さんの「違和感」を、どこかで理解してくれる相手になるはずです。 

情報を伝達するという意味で、何かを「教える」ことはできます。けれど教えられたことを「知識」「経験」として身につけるのは、皆さん一人ひとりです。皆さんが、卒業式という儀礼があろうとなかろうと、きちんと何かを「卒業した」と言えるような日々を過ごしていてくれたら、これ以上嬉しいことはありません。このたびは、ほんとうにおめでとうございました。 

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