「コロナ後の世界」は来るか?

雑記

この数週間、世界中の人々の関心は、新たな感染症の拡大と、それに伴う種々の社会的影響に集中している。情報の同期性が強まり、同じ話題をリアルタイムに共有することが可能になった現代では、このような危機的状況での不安や懸念も即座に拡散される。先が見通せない中で、指導者の思い切った決断が必要だとか、もたもたせずに迅速に行動すべきだといった主張も見聞きされるようになった。

そうした中、ユヴァル・ノア・ハラリが日本経済新聞に興味深い論考を寄稿している。その内容は、政治的な決断とリーダーシップを求める声が、国家権力による監視の強化と孤立主義を深めることを憂慮し、市民の知識をアップデートすることや国際的な連帯を強くすることを求めるものだ。つまり「コロナ後の世界」が、独裁的で権威的なものになるか、リベラルでオープンなものになるか、という選択に直面しているというのである。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO57374690Y0A320C2000000/

もしも、ハラリの憂慮するような世界が本当に訪れるのであれば大きな問題だし、リベラルでオープンな社会を目指すべきだという主張にも同意する。しかしながらハラリの主張は、グローバリゼーションについて研究する立場から見ていくつかの疑問点があるし、さらにいえばそのレトリック(語り口)にも問題があるように思う。そこでこのエントリでは、社会学がグローバリゼーションについてどう扱ってきたのかを振り返りながら、「コロナ後の世界」は本当にやってくるのかという話をしてみたい。

社会学におけるグローバリゼーションの扱い

社会学は、伝統や共同体による束縛が弱まり、人々が自由意志に基づいて行動することが基本となった近代社会において、個々人の意思や思惑に還元されない社会現象を対象に、そのメカニズムや影響について研究する学問だ。対象となる現象の幅は広く、またそのレベルも、日常生活のいち場面から、グローバリゼーションのようなマクロな現象まで様々ある。

とりわけグローバリゼーションについては、金融や貿易などの国際的な資本と資源の移動だけでなく、労働力や観光者の移動、そしてメディアによる情報の移動やそれがもたらす価値観、文化の変容といったテーマが取り上げられてきた。たとえば、メディアがある社会の文化を他の社会に伝達し、それに伴って人や資源が移動すること、具体的には、日本の食文化が日本以外の社会に伝わり、日本食を求める訪日観光客が増加するといったことが挙げられる。

経済のみならず文化やコミュニケーションの領域で起きる変化は、人々に「経験の変容」をもたらす。行ったこともない外国の、食べたことのない料理を求める気持ちが高まるなどということは、情報が閉ざされていた世界では考えられないことだった。社会学は、人々の経験が変容することで、ヒト・モノ・カネの移動にも影響が出ると考えてきたのである。

グローバリゼーションの楽観論と悲観論

社会学周辺のグローバリゼーション研究には、大きく言って3つのトレンドがあった。ひとつは1990年代ごろに盛り上がった「グローバリゼーションは起きているのか」という論争。これは政治学者らによる「グローバリゼーションと呼ばれている現象は、既存の国際政治の枠組みにおける国家間関係の広がりに過ぎない」という主張と、先に述べた「経験の変容」が、世界の交流を質的に変化させているとする社会学者の反論から成り立っている。

もうひとつは、この「経験の変容」が、新たな世界の枠組みをつくるという規範的な主張。現在まで社会学におけるグローバリゼーションの理論的研究の中心となっているA. ギデンズやU. ベックといった人々が、こうした立場をとる。要するに、情報やコミュニケーションが行き交うことで、私たちは異なる立場の人に対して寛容になり、世界がより融和的になっていくというわけだ。彼らがそうしたことを論じたのが、まさにEUが誕生せんとする時期だったこともあり、彼らの主張は、大いなる期待と楽観をもって受け止められた。

そして最後は、まさにそうした楽観論が裏切られ続けてきた21世紀以降の世界の状況を反映した悲観的な見方だ。古くは1990年代にG. リッツァが提唱した「マクドナルド化」をはじめとして、2001年の米国同時多発テロ、2008年の金融危機から玉突き的に発生した欧州債務危機、その他、労働力や工場の世界的な連携、いわゆるグローバル・サプライチェーンの広がりによる、先進国からの途上国に対する搾取構造の強化、あるいは僕の専門である食のグローバル化に関わるところでいうと2008年の世界食糧危機など、グローバリゼーションの深化によって世界はより悪くなったとする見方だ。

2016年の米国大統領選挙(トランプ旋風)、そして英国でのEUレファレンダム(BREXIT)といった現象は世界を驚かせたが、むしろこうした社会学の流れを押さえていれば、グローバリゼーションに悲観的な側面があることは自明だった。ハラリの主張する権威主義的で孤立した世界とリベラルでオープンな世界という対立軸も、基本的にはこの線で理解できる。つまりこの対立軸は、21世紀の社会学がグローバリゼーションについて論じてきたことそのものなのである。

権力による監視は強化されるのか

では、その線にもとづいてハラリの論じる「監視の強化」と「孤立主義」をどのように考えるか。まず監視について言うならば、「全体主義的な権力による監視」がどのようなものを指すのか考える必要がある。権力による監視の古典的モデルは、まさにナチスやスターリニズム下のソ連のような全体主義国家の思想統制にある。一方でハラリが指摘するのは、スマホなどを通じた生体情報の監視だ。両者の間には、非常に大きな隔たりがある。

国家が人々の行動や思想を制約するためには、文字通りの暴力を伴う強権の発動が必須だ。スマホやネット利用などの「情報行動」が監視されたからといって、それが即座に思想統制を生むわけではない。あり得るとすれば、生体情報を提供しなければ公的サービスが受けられないようにするといった措置だろうが、それとて国家が福祉などの公的サービスを担う力をもつという前提が必要だ。

新自由主義の典型的な主張としてよく取り上げられる「社会は存在しない」というサッチャーの言葉をもじって、ボリス・ジョンソンは「社会は存在する」と述べたという。健康や生活の維持に関わることがらを自己責任に帰すのが新自由主義の考え方だが、一方で国防やセキュリティに関しては権力が肥大する傾向にあるともされていた。だが多くの先進国で高齢化が進み、健康に関することがらを自己責任に任せることが難しくなってくると、まさに国防やセキュリティのためにこそ福祉の充実が必要になるという逆説が生じる。「監視の強化された社会」とは、思想統制を伴う全体主義国家といった単純なモデルで理解できるものではない。

さらに言うならば、その「監視」を行うためのデータを提供するのは、むしろ「民間」であり、「監視される本人」であるということにも注意しなければならない。たとえばヤフーは、自社の保有するデータを用いて、東京都と近隣県との往来自粛等の影響を分析している。NHKは携帯電話の位置情報をもとに、週末の都心の人出が減少したことを明らかにしている。リサーチ・アンド・イノベションは、レシートを撮影して登録するとポイントがもらえるスマートフォン向けアプリで、マスクを購入したタイミングを調査している。LINEは、厚生労働省と連携し、新型コロナウイルスに関する調査を実施するとしている。人々の思想や行動がデータとして監視されることがあるとしても、それをデータにしたり、そのためのデバイスやアプリを利用したりするのは、ほかならぬ市民なのであり、国家がそうした手段を強制的に利用させ、そのデータを接収するというのは、おそらく中国ですら容易ではない。梶谷懐と高口康太が『幸福な監視国家・中国』で描くように、現代の監視はむしろ、パターナリズムに基づく功利主義の道を歩んでいるのである。

要するに、「全体主義的監視か市民の権限強化か」というハラリの提唱する二者択一は、適切なものではない。起きているのは「市民の権限強化を伴う、権力による監視の強化」であり、ある部分では市民が非常に賢くなるが、別の部分ではどのように監視されているのかすら把握できなくなるという事態の同時進行なのだ。

国家の孤立主義は深まるのか

もうひとつの論点、「国家主義的な孤立」についてはどうだろうか。確かに現在のような、人の往来が制限され、グローバル・サプライチェーンが崩壊しかけている状況では、世界がグローバルに連携することを諦め、まずは自分たちだけで生き残ろうとするというシナリオにはリアリティが感じられるかもしれない。だがこれも、政治や市民活動におけるグローバルな連携が進んできた背景を考えると、そう単純には受け止められない。

そもそも20世紀後半の世界で自由貿易や世界の連携が進んだ背景にあったのは、二度と世界大戦を起こさないために、国民国家を孤立させず、相互依存的な状態をつくることが必要だという認識があったからだ。独仏の間の懸案事項だった鉄鋼と石炭を共同管理する仕組みが後のEUへとつながったり、GATTからWTOによる自由貿易の推進の流れの中で、(多くの問題がありつつも)新しい独立国や十分に開発の進んでいなかった国がグローバル・サプライチェーンの中に参入できたことで経済成長を果たし、貧困や内戦のリスクを減らしてきたことは無視できない事実だ。

つまり世界の国々のグローバルなつながりには、一方に利益があって他方が不利益を被るという搾取的な側面だけでなく、他ならぬ国家の生き残りにとって必要不可欠だという側面もあるのだ。ゆえに国家は、生き残りのためにある部分では門戸を閉ざし、自国民の生存を優先することにもなろうが、他方、どこかでは国を開き、他国と連携していかなければならない。人の往来は禁止されても、中国から輸入されるマスクは喉から手が出るほど欲しいというのが、いまの状況なのである。

また、「国家が門戸を開くか否か」だけが、グローバルな連携の形を決めるのではない。おそらくいまもっとも読まれるべき本のひとつ、『ゾンビ襲来――国際政治理論で、その日に備える』の中で著者のダニエル・ドレズナーは、ゾンビウイルスのパンデミックという状況に直面して、国家がどのように対処するかという問題だけでなく、NGOなどの市民セクターがその決断に与える影響について論じている。人の行き来ができなくても、情報の世界的な流通を止めることはできない。そしてその情報が市民活動にもたらす影響は、世界的な連携をもたらすだけでなく、国家による、あるいは科学的知見に基づく合理的な対処に対する歯止めともなり得るのである。

さらに、国家の決断には国際機関の決定も影響力をもつ。とはいえ国際機関も、国家から独立し、国家を拘束する上位の権限を持つわけではない。むしろ有力国の意見や立場から、合理的な判断が捻じ曲げられてしまうということすら起きる。たとえばWTOにとって台湾が「存在しないもの」として扱われることで、台湾が蓄積したパンデミックへの対処法のデータや知見もまた、闇に葬られることになる。

こうしたことをまとめるなら、「国家主義的な孤立かグローバルな結束か」という二項対立もまた、適切なものではない。国家は、市民や国際機関、他国との条約や協定といった国際法を無視して、独断的にあらゆることを決定する力を、もはや持っていない。それができるのは、他国を無視しても生き延びることのできる、ごく一部の豊かな島国(もしくは大陸)だけだろう。そしてグローバルな結束は、必ずしも常によい結果をもたらすわけではない。国家や市民セクター、企業、ソーシャルメディアの言説などがそれぞれ独立した動きを見せ、互いに綱引きをしながら、そのバランスの中でものごとが決定されていくと考えるのが、現代の国際関係の標準的な見方だ。

「演繹された決断」のもつ問題

ここまで述べてきた通り、ハラリの主張には、本来なら二項対立、あるいはトレードオフの関係にあるとは言えないものが「こちらを選ぶか、あちらを選ぶか」という二者択一として示されているという問題点がある。僕が何より注目したいのは、この二項対立のロジックが非常時において持つ影響力だ。

というのも、ハラリの主張の根拠の根幹は、エビデンスに基づいて帰納的に導かれたものではなく、限られたいくつかの傍証から演繹的に導かれたものであるからだ。そして、それに基づく「こちらを選ばなければ、あちらのもっと悪いものを選択するほかなくなる」という二者択一は、基本的な点で非常事態における権威主義と相性がいい。なぜなら刻一刻と状況が変化する非常時においては、合理的なエビデンスは限られており、どこかで「限定されたエビデンスから演繹的に未来を予測する」という決断が必要になるからだ。

このような「演繹に基づく決断」は、一般的にビジネスの世界では称賛されるものだと言えるだろう。エビデンスが揃うのを待っていたら市場の変化に乗り遅れるというわけだ。そしてそうした決断ができる人物が評価されるのであれば、ハラリのような二者択一論は「非常に素晴らしい洞察だ」ということで、ソーシャルメディアをバイラル的に席巻していくかもしれない。だが、演繹法が「前提が正しいのならば結論も正しい」という論理である以上、前提が間違っていたり変化したりしたら、結論も正しいとは言えなくなる。

権威主義とは、要するに「偉い人が言うことは正しい」という上下関係を受け入れる考え方のことだ。エビデンスの限られた非常時では、確かに「専門家の言うことを信じる」といった形で、物事の判断を簡便化する必要はあるだろう。ただ、「コロナ後の世界」が訪れるとしても、それはコロナ以前の世界に存在していた懸念点が消滅した世界ではない。「まだ、わからないよね」という態度保留が許されるくらいには、世界の問題や国際関係は複雑で、簡単に未来を演繹できるようなものではないということは、心に留めておくべきだろう。

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