日常化された欲望

44歳の誕生日を、こんな形で迎えることになるとは思ってもみなかった。

もともと誕生日を祝いたいタイプではないし、歳を重ねるごとに、人生の残りの蝋燭が目減りしているのを自覚しようという日になりがちだった。それが今年は、死を覚悟し、もしも本当にそうなったら、ということを想定しながら生活し、働いている。たとえばそれは「万一、学期の途中で授業を続行することができなくなったら」という想定で、科目の設計を行っているなんてこと。

世の中の多くの人が、修羅場というか鉄火場というか、そういう状況に直面している。今年は学部執行部のメンバーでもあるので、ほんとうに深夜まで多数の連絡が飛び交い、ものすごい速さで色んなことが変化し、判断され、実行されている。ベンチャー時代を思い出すというか、むしろスタートアップに放り込まれたと思って行動するのが、もっとも理にかなっているとすら思う。

「ハイテンションな自己啓発」という概念に触発されて「カーニヴァル化」というコンセプトで社会批評をしたのは、もう15年も前のことだ。でも僕自身は、実はそうしたハイテンションな場に関わることがあまりなかった。2001年にも、2008年にも、2011年にも、それ以外にも、社会を揺るがす大きな出来事はたくさんあったのに、その中心で社会的な役割を果たすことはなかった。いつも傍流のような立場から、どちらかというと引いた目で、そうした出来事を見ていたように思う。

ただ、いまの状況に関しては、完全に当事者だ。しかも何かを作る側ではなく、何かを守る側として。そういうと聞こえはいいが、たとえば大学の授業であれば、多くの大学と同じように勤め先も学生の入構が制限され、図書館は閉館し、それだけでいただいたお金に相当する価値を提供できなくなっている。オンラインで授業を行うなんていうけれど、この段階ですでに問題は「損失をいかに減らすか」という水準に後退しており、何をしても絶対に文句を言われる立場にある。

そういう中で、毎日のように変化する状況に関わり、決断し、行動するためには、強い職業倫理(道徳という意味ではなく、社会科学的な意味での倫理)が求められる。どこかで、「これは今までの自分ではなく、この世界線における、偶発性の前に晒された自分なのだ」と思っていないと、きっともたないのだろうなとも感じる。

だから、まだどこかで「引いた自分」もきちんと存在している。こと「これで新自由主義の体制も終わり」とか「グローバリゼーションの前提が変わる」とか、そういう大きな話には懐疑的な考えをもっていて、「そんなに何もかもが一変してしまうのかなあ」と感じる気持ちのほうが強い。人の欲望を、そんなに甘く見てはいけない。この世界にはまだ、贅沢したい、楽しみたい、喜びたいという欲求が満ち溢れ、いま無理やり押さえつけられている状態にある。

それは確かに「過剰」なのかもしれないけれど、でも間違いなく「日常化された欲望」でもある。そしてその欲望を守ることで、社会というものを守る道は、絶対に存在していると信じている。

ここ最近、ミュージシャンの人たちのオンラインでの動きを見ていると、ほんとうにそう思う。どうにかして「歌う」とか「演奏する」という彼らの日常を守る動きこそが、自宅からアップされた無数の弾き語り動画だ。僕も含めて、音楽に関わる人たちにとって演奏するというのは、職場でのみ行う生産活動ではなく、日常の消費活動と密接に結びついた実践、ハンナ・アレントの言葉を借りれば「労働 Labor」ではなく「活動 Action」ということになる(生み出された作品は文字通り「仕事 Work」だろうけれど)。

影響されて最近は、毎日のように弾き語りの自撮り動画を撮影している。所詮は素人のすることだ。別にそれで何かを生み出そうと思っているわけじゃない。だけれど、こうした活動ができること、それが許されていること、そして、それを受け取る人がいる環境が、たとえインターネットの上にであっても、きちんと存在すること。それは、この社会が「コロナ禍」と呼ばれる状況にあって示すことのできる、まったき希望であると僕は思う。

来年の日記に、どんなことを書けるのか、いまはまだよく分からない。そもそも自分が存在しているのかすら。ただこの後に来る世界がどんなものであっても、僕はきっと、「日常化された欲望」に基づく活動にこそ、人間社会の基盤を見るという立場をとるのだろうなと、そんなことを考えた誕生日だった。

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