起業家精神と社会の統制

経済活動、社会活動に対する強い抑制(なぜか「自粛」という言葉で語られているが、正しくは「抑制」というべきだ)が働く中、この状況をどうやって、いつ終わらせるかという議論が噴出している。日本でも、特に感染者が多い自治体、つまり出口の見えない自治体の首長が率先して「出口戦略」を語り始め、米国においても民主主義の国らしく、経済活動の再開を求めるデモが起きている。話は「病気による死者と経済による死者を天秤にかけろ」という極端なレベルのものにまで至っているが、多くの人は「こちらが望ましい」という判断がつかず、まして「あなた(の大切な人)は死んでも構わないから私の言うとおりにしろ」と、当事者に面と向かって言うことなんかできないだろう。

社会課題や政策をめぐる議論が錯綜し、どのような視点で判断すればいいかわからないとき、僕たちの多くは混乱する。話の中身に分け入ってひとつひとつ読み解いていっても、どれもそれなりに説得力がありそうで、しかもどの議論も「なぜ私の言うとおりにしないのだ、いますぐだ!」という論調だから、読んでいるだけで気疲れしてしまう。多様な立場と関心のステイクホルダーに向き合わなければいけないサービス労働の人々はきっと、こういう「クレイム(主張)」に日々晒されているのだろうと思うと、せめて黙っていることくらいしか、自分にできることはないのではないか、そう思う人も多いのではないか。

こういうとき、話を整理するひとつの方法として、「特定の主張に紐づく特定の立場」をモデル化し、その主張の背後にある動機を読み解くことで、「なぜこの人(たち)はこのようなことを主張するのか」について理解するという社会学の手法がある。もちろんこの手法には、あらゆることを属人化させ、議論の中身ではなく主張する人の属性でものごとを判断してしまうという間違いを犯す危険性がある。だが、「人ではなく話の中身だけを見ればいい」というのは、議題と評価基準の決まったディベートの世界の話であって、現在のように「それを言うならこれだってあるだろう」という混乱した議論の只中では、そのような評価基準すら流動的になる。それゆえ、社会的な立場を主張と関連させて理解することで、議論の軸を整理するという「ズラシ」も、たまには許されるのではないかと思っている。

逆境の中での起業家精神

まず、どのような人たちが「感染抑止よりも経済を」と主張するのだろうか。ひとつ考えられる立場として、アントレプレナー、起業家が挙げられる。アントレプレナーといっても、一昔前に流行った「IT社長」のような人たちだけでなく、アルバイトを続けながら創作活動を行うミュージシャンや俳優、作家などのクリエイター、フリーランスのプログラマーやデザイナー、飲食店のオーナー、地域のサービス業の経営者など、ありとあらゆる種類の「自営業者」がその中に入る。全員ではないだろうが、こうした人々にとっては日々の経営と収入は死活問題であり、特に短期のキャッシュへの依存度が高い飲食・小売などのサービス業者にとっては、「感染か経済か」というのは、のっぴきならない二者択一になるだろう。

興味深いことに、特に日本はこうした中小事業者の割合が極端に高く、被雇用者の7割を抱えているにも関わらず、起業家支援の仕組みが充実しているとはいえない。『ベンチャー白書2016』のデータによると、VCによる日本の投資額は、アメリカが約7兆円、ヨーロッパで約5000億円に対して、約1300億円にとどまる。今般の支援策においても、日銀による社債の買い入れが行われる一方で、中小・フリーランス支援の手薄さが批判されるところでもある。短期のキャッシュが必要な人にお金を届ける仕組みが融資(借金)しかないことが背景にあるとはいえ、こうした実情は、「アントレプレナーに優しくない国」という評価を下すに十分なものだと言えよう。

環境が逆風の中で、当事者たちが抱く合理性とはどのようなものか。それは「最初から覚悟していた」「助けてもらえることは期待していなかった」というものだろう。つまり政策による救済・支援、あるいはそもそも社会が公平にできているということには期待せず、どのようにして自分たちがサバイブするかを考える価値観と整合性が高くなる。実際、飲食店がデリバリーやテイクアウトを始めたり、活動の抑制が続くエンタメ産業でも、アイドルが新たな収益源を確保したりするといった「小さなサバイブ」の動きは、そこかしこで見られるようになっている。「どっこい生きてる」が、こうした人々のモメントであり、その粘り強さが支える経済や市場の力は、敬服するほかない。

ICTの力で誰もがスタートアップ

むろん、こうした「生き残りの力」は、政府補償への期待に対する反発、つまりアメリカの保守派に見られるような「自分で判断して自分で動くんだから、政府は口を出すな」という自己責任原則と相性がいい。それだけでなく、「補償に頼るなんて甘えた精神だ」といった過剰な責任言説(ときに「自己責任論」という間違った言い方をされる)にも繋がりかねないが、それはまた別の話だ。むしろここで注目したいのが、こうした人々にとってひとつの救いになるICT環境の充実が、意図せざる影響を与えるのではないかという仮説だ。

ICTの世界において起業が起きやすいのはなぜか。新興産業であり、また相対的に若い世代のほうが馴染みが深いとされていた時期もあったので、そういうイメージの影響もあろう。ただドットコム・バブルの時期から20年が過ぎ、高齢者もスマホやLINEを利用する時代に「ICT=若い」というイメージだけが起業の背景にあると考えるのはいささか単純だ。

ICT産業のなかでも特にインターネットを利用したサービスは、通信インフラやネットワーク規格、端末の普及といった、サービスの基盤となるインフラ・レイヤーに依存する。しかるにこうしたインフラは、政策や大手通信企業の経営努力によって既に整備・定着が進んでいる。特に日本はiPhoneのような高機能端末が広く普及していることもあって、ブラウザ経由で利用できる最先端のサービスをオープンに提供しやすい環境にある。誰もがアイディアと情熱さえあれば、リーン・スタートアップできるというわけだ。

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現在、デリバリーを始める飲食店にせよ、クラウド・ファンディングでライブイベントを開催しようとするミュージシャンにせよ、彼らが決してICTの専門家でもないのにこうした新規事業に乗り出すことができるのは、飲食の提供に関する法規をネットで調べることができ、お店の情報をデリバリーサービスに登録することが容易で、利用者がSNSなどを経由して事業者を見つけやすくなる環境が整ったからだ。

意図せざる影響を考える

このように考える限り、中小・自営の人々や、そうした人々に共感的な立場の人が「経済のほうが優先だ」と主張するとしても、その中身の判断にはよほど慎重にならなければいけない。彼らは人命を軽視しているのではなく、「自分たちでなんとかできる」と考えている。というよりもはじめから政策に期待などしていないのだから、「頼むから邪魔だけはしてくれるな」というのが本音のところだろう。要するにこうした人々が「自粛」に従うインセンティブはない。

また、そうしたリスクのある環境でチャレンジする人たちは、そもそもリスクに対するアセスメントが、そうでない人に比べて甘い。でなければわざわざ挑戦しようとは思わないからだ。「なんとかなるだろう」という楽観は、事業を興す上では必要不可欠なものであり、それは感染症が拡大している環境でさえも、「頑張ればなんとかなる」という判断に至る背景であろう。

そして、ICTはそもそも「完全性」と相性が悪い。インターネットの通信の仕組みそのものが「たまにつながらないことがあるけど気にしないでね」というものだし、多くのサービスは、特にローンチ直後においては多くのバグを抱えていたとしても、いずれ改修すればいいという姿勢でスタートする。まったくスキのないサービスよりも、まずできることをすぐ始めるのが大事だというわけだ。

以上のような「ICT時代のアントレプレナーシップ」は、公権力による強い行動の統制を要求する感染症対策と、根本的な点で相容れない。全員が同じように、同じ基準で、一斉に行動を変えろ、と言われるわけだから、窮屈なことこの上ない。政府の判断がどうあれ、自分の判断は違うし、それに沿って行動すれば「ある程度は」問題が解消されそうに思える。多少のミスはあるかもしれないが、分からないことが多い中ではそういうことも起きるのだと覚悟しなければならない。ベストな政策ではなく、ベターな対策こそが社会に必要なのだ、ということだ。

真の論点とはなにか

以上から、論点となっていることが「経済か命か」のトレードオフではなく、「政府が仕切るか個人が頑張るか」の対立だということがわかる。そのような見立てで、社会、あるいは世界全体の方針を整理してみると、例えば欧州の場合であれば、自由主義であることを前提に、非常時には政府が私権を制限して強い統制をかけることができるようになっている。アメリカであれば、私権の制限を最小化し、自主独立で判断、行動することが推奨されるのが、社会の基本設計になっている。韓国・台湾はいまだ冷戦構造の名残の中で戦時下にあり、また中国やシンガポールであれば権威的な体制が存在しているので、いずれにしても強権的な統制と監視が敷かれやすい環境にある。

翻って日本は、そのいずれの仕組み・姿勢も中途半端であり、ある部分では統制的で、ときに罰則をちらつかせて市民活動をコントロールしようとするが、さりとて統制を徹底し、緊急的な補償も含めた大きな政府による社会統合を目指すほど強権的でもない。言い換えると「我慢と工夫」はお願いするけれども、「勝手な判断と行動」は慎めという、一貫性を欠いたものになっているのだ。

なぜそうした中途半端な状態に陥るのか。背景にあるのは政策の煮えきらなさと非一貫性だが、それ以上に目立つのは、権威主義(権威的ではなく)への期待だ。つまり、為政者が権威的に振る舞わなくとも、人々が自発的に政府を尊敬し、協力し、大人しくしてくれることを「期待」している。なぜなら政府は頑張っており、偉いからだ、という姿勢。それが人々にとっては「じゃあどうしろというんだ」という不満を呼び起こすとしても、ほかに手段がないという状態に見える。

社会科学の基本的な前提は、「人は自由に振る舞うものであり、いたずらに統制しようとしても、意図せざる結果を引き起こしてしまう」というものだ。その意味で、「人々に一層の努力をお願いする」のも、「自分の言うとおりにすれば万事解決なのに政府は馬鹿だ」と罵るのも、もちろんパチンコ店を営業するのも、そこに自己判断で行列を作るのも、そうした自由な行動の中に含まれているといえる。感染症対策にかかわる行動をそうした「自由な行動」の範疇に含めるのなら、「人の行動は制御できないが、方向づけることはできる」というナッジ理論に従った目標設定と対策が必要になるし、含めないというのなら、罰則や強制を伴う強権的な行動抑制が必要になる。

問題はあくまで社会のレベルにあり、それは個人として何をするかという水準とは切り離されて論じられるべきだとは思う。ただ多くの人が同じことに関心をもっている状況では、個人間の意見の違いや立場の差があらわになるし、その点で「対話」の難しい状況ではある。だからこそ、最初に書いた注意点を踏まえつつも、言説を立場と連関させて考えてみるのもいいのではないか、と思った。