新型コロナウイルスの感染拡大が社会に与えた影響は甚大で、この数ヶ月だけでも、多くの人が生活の変化を余儀なくされ、また先の見通しの立たない状況に置かれている。その多くはネガティブな変化であり、一日も早く「もとの日常」が還ってくることを期待する人は多い。もちろん、そんなことはありえない、私たちは「新しい生活様式」なるものに慣れ、ウイルスと共存していくほかないのだという人もいる。
その一方で、そうしたニューノーマルの中でも、むしろ普及や定着を期待されることもある。それがリモートワークを導入した働き方だ。リモートワークには、従業員のワークライフバランスや業務全体の効率化などのメリットがあるとされており、コロナ・ショックがもたらした数少ない「よい変化」のように思われる。
しかしながら社会学的には、リモートワークがもたらす「望ましさ」には、手放しで肯定できない面もある。というのも社会学は、人々が社会的な規範に束縛されなくなり、自己本位的になることは、むしろ人々にとって負の影響をもたらすと考えてきたからだ。このエントリでは、リモートワークそのものではなく、リモートワークに代表される「自己本位的な活動」の影響について、社会学理論の観点から分析してみたい。
1.リモートワークと自己本位的な消費
まず現状を確認してみよう。日経ウーマノミクスの調査によると、同会員を対象にした調査では74.8%が、コロナ収束後も在宅勤務を継続したいと回答したという。海外の事例では、欧州で行われた調査において、イギリスの回答者のうち、週5日のオフィス勤務に戻りたいと回答したのは4人に1人に過ぎず、また完全なリモートワークを希望したのも17%であり、理想的なシナリオは、パートタイムベースで在宅勤務が可能な、柔軟なモデルだったとCNET Japanが報じている。
産業への影響はどうだろうか。第一生命経済研究所の報告によると、テレワークを実施するにあたって必要となる初期費用などで、1.3兆円ほどの直接需要が生じていると試算されている。他方で減少する需要としては、通勤費やオフィス光熱費などがあるとされる。日本総研のレポートでも、仮に全就業者の1割がテレワークを続けた場合、オフィス空室率は15%近くまで上昇し、オフィス賃料も2割ほど下落すると予想されている。
ミクロな側面では、ファッションに対する影響が挙げられる。日本経済新聞の記事によると、在宅勤務で人と会う機会が減った結果、ジャケットなどコンサバな装いが減り、カジュアルな服装が増えたという。自宅内でパソコンの前に向かうときにも、下半身はパジャマというケースがあるようだ。
飲食では、飲酒量が増えたというケースが報告されている。Zoom飲み会などのリモート宴会で、終わりの時間が決まっていないために飲みすぎるというものも、自宅で過ごす時間が増えて、酒の量が増えたというケースもある。東洋経済オンラインやダイヤモンド・オンラインでは、アルコール依存への注意喚起の記事が掲載されている。
総じて、自分の都合で働くことができるようになった面はポジティブに評価されているものの、「巣ごもり消費」と呼ばれる個人消費の面では正負さまざまな影響がありそうだ。
社会学的にはこうした傾向は「自己本位的な活動」が目立つようになっている、と理解できる。自己本位とは「わがまま」という意味ではなく、「社会からの規制を受けない状態」のこと。人に見られることがないのでおしゃれに気を使わないとか、好きな時間に好きなだけ酒を飲むといった行動は、社会から自分の行動を束縛されることがなくなり、自分本位に(つまり「自分に正直に」)行動することができるようになったことで誘発されたものだと考えられる。
2.気にしてほしいのに放置される絶望
消費活動が自己本位的になることには、よい面もある。既に昨年末、シチズンが行った意識調査では「忘年会の1次会で適当な時間」として、「30分以内」と回答した割合が、ビジネスで14.8%、プライベートでも14.5%であったことが公表されていた。従業員の時間を終業後も拘束し、長時間の「つきあい」によって同質的な結束を図る日本企業のメンバーシップ的体質は、非正規雇用の増大とともに内部崩壊しつつあるという見方をするなら、カイシャからの拘束が弱まり、自己本位的な消費に時間を振り向けられるようになることは、歓迎すべき変化だろう。
ただそれは、「干渉されたくないのに、社会の側が私に干渉してくる」というときの話だ。ちょうど新人の入社の時期が緊急事態宣言の発令と重なったこともあって、多くの新入社員が一度も出社することのないまま、オンラインでの新人研修を受けることになっている。BUSINESS INSIDERの記事では、画面の向こうでよく知らない人が話しているだけの研修を受けながら、「入社した感覚がない」という新社会人の声を紹介している。同記事によると、入社しさえすれば「組織人」としてのアイデンティティを獲得できた従来型の仕組みが、オンライン化によって成り立たなくなっているのだという。
同記事の趣旨は、だから会社にアイデンティティを与えてもらうことを期待するのではなく、自分のしたいことにチャレンジしてみる――つまり、自己本位的に行動してみる――ことを推奨するものだ。その趣旨に反対はしない、というより僕自身はそのような生き方を選んできたタイプだが、そう簡単な話でもないのだろうとも思う。
実は社会学において「自己本位」という概念を提起したのは、19世紀末から20世紀にかけて活躍したフランスの社会学者、エミール・デュルケムだ。彼は有名な『自殺論』の中で、自殺という個人的な出来事が、社会の動向に影響を受けるものだということを、様々なデータから立証しようとした。そこで注目したのが「社会の規制力」だ。自殺には、集団の圧力が強く、その影響で起きる「集団本位的自殺」と、対極的に、集団の圧力が弱すぎることで生じる「自己本位的自殺」があると彼は述べる。
つまり自己本位的自殺とは、人が共同体から切り離され、孤立し、「気にかけて欲しいのに放置されている」ことから生じる絶望に関連した自殺だ。日本においてもいわゆる孤独死や孤立死の問題が取り上げられるようになったし、イギリスでは「孤独担当大臣」が任命されるなど、人が社会から切り離されてしまうことによって生じる負の影響への注目は高まっている。自己本位に生きるといっても、それが孤立につながるのだとすれば、やはり問題だと言うことができるだろう。
3.急に欲望が解放されることの絶望
ところで『自殺論』には、もうひとつ重要な自殺の類型が登場する。それが「アノミー的自殺」というものだ。この独特な概念は、社会学の考える人間と社会の関係をよく表すものなので、少し回り道をして学説的な説明をしておこう。
デュルケムが注目するのは、自殺が、恐慌のときだけでなく、繁栄しているときにも増大するという事実だ。職を失い、お金がなくなって自殺するのは理解できるが、なぜお金持ちになったのに自殺してしまうのか? デュルケムはそれを、豊かになったことで欲望が社会の規制から解き放たれ、際限のない欲にかられるようになったからだと説明する。お金ができたのであれも欲しい、これも欲しいとなるのだが、実際には欲望のすべてを満たすことができないので、絶望してしまうというわけだ。
という説明を読んでも、納得のいかない人も多いかもしれない。実際、「アノミー的自殺」という概念は、ユニークではあるけれど説明が厳密ではないということで批判を受けてきた。社会学者の大澤真幸は、自己本位的自殺とアノミー的自殺は同じものだとも述べている。
デュルケムの後をついでアノミーという概念を整理したアメリカの社会学者、ロバート・K・マートンによれば、アノミーは、「制度的手段」と「文化的目標」の関係で表されるという。そのモデルをごく単純化して説明するならば、アノミーには「金持ちが急に貧乏になって、もとの生活を送る手段を奪われたことで生じるもの」と、「貧乏人が急に金持ちになって、どうしていいか分からずにコントロールが効かなくなって生じるもの」がある。前者を「手段のアノミー」、後者を「目標のアノミー」と呼ぶ。
目標のアノミーの典型だと僕が考えるのが、大学生の「5月病」だ。受験という厳しい規制から解き放たれ、やっと自由な大学生活が送れると思ったのもつかの間。どんな授業を履修するのか、将来を見据えてどんな準備をしておくべきなのか、すべてを自由に選ぶことができるようになる一方、誰からも拘束を受けないことによって方向感覚を喪失し、様々なトラブルを抱えることになるというケースは、目標のアノミーがもつ「社会の規制力から急に解放されたことがもたらす負の影響」という特徴をよく示している。
いま、急にリモートワークの状況の中に置かれた人の中には、まさに「目標のアノミー」の状態に陥っている人も少なくないだろう。冒頭の事例に挙げたような「酒量が増える」というのもその典型かもしれない。既に阪神淡路大震災や東日本大震災などの仮設住宅暮らしに関する研究の中では、社会的孤立がアルコール依存をもたらすことが指摘されてきている。「なんでも自由にしてよくなる」ことが、常によい結果をもたらすわけではないのだ。
4.結束が弱まり、対立が深まる
リモートワークに見られるような社会的規制・抑圧からの解放は、社会学のアノミー論から見た場合、必ずしもよい評価ばかりはできない。しかし、そうした(個人の)ミクロ面だけでなく、(社会的な)マクロ面から見ても、自己本位的な傾向が強まることのリスクを挙げることができる。
まず私たちは、個人生活の一部においては、確かに以前のような規制を受けなくなったかもしれない。しかしながら社会全体では、緊急事態宣言の解除後も依然として強い社会的拘束のただ中にいる。つまり、ある面では目標のアノミーの状態に置かれながら、同時に様々な手段のアノミーを経験している。このような混乱した規制の中では、「したいこと」と「できること」を整理しながら生活するのは、誰にとっても非常に困難なものになるだろう。
さらに言うなら、社会的規制の緩和あるいは拘束の度合いは、人によって大きく異なる。冒頭ではリモートワークの影響による消費や産業の変化について述べたものの、そもそも完全にリモートワークで済ませることのできるジョブやタスクが仕事の全体に占める割合はさほど大きくはない。というより、リモートワークしながらショッピングできるのは、商品を宅配する配達員がいるからであり、際限なく酒が飲めるのは、近所のコンビニのレジに販売員が立っているからだ。その人たちには「マスクをしろ」「ウイルスを運んでくるな」といった罵声が浴びせられ、むしろ以前よりも強い社会的規制による拘束がかかっているのである。
ソーシャル・ディスタンシング(社会的距離戦略)は、感染拡大防止という面では必要な施策だが、同時に私たちが、人々の間に存在する社会的な規制力のまだらな状態を他者と共有することからも遠ざけてしまう。他者がどのような状態で過ごしているのかを知ることができず、その点では自己本位的に活動することができる一方で、他者と触れ合わなければいけない場面では強い拘束を受けるというストレス状況では、他者の行動の多くが「私の自己本位的な行動を邪魔するもの」と映る。得体の知れない他者がとる行動のすべてが「なんて自分勝手な奴らなのだ」と見えてしまうようになれば、社会的な結束は弱体化し、対立が深まることになるだろう。
5.そして「エモさ」の分断が生じる
以上のように、社会的な規制が弱まり、人々が自己本位的になる一方で社会的な拘束が強まる社会では、人々の間の分断が進むと考えられる。ではその分断を解消し、人々が再び結束を取り戻す方法はあるのだろうか。
ベルナール・スティグレールは、メディア化された社会において、権力が人々の気持ちや感情を操作することで統治する権力のことを「心-権力」と呼んでいる。ミシェル・フーコーの「規律訓練型権力」が、人々の身体や行動を統制することで統治する権力だったのに対して、スティグレールは心-権力を、多くの人がメディア・イベントを同時に経験することで、人々が一体感を得られるように巧妙に操作されたメディア状況に由来すると捉えている。
もしかすると今後、私たちの社会にも、「同じ時間に」「同じものを見た」という経験で、人々の間に一体感を取り戻そうとする、そんなイベントがいくつも催されるようになるかもしれない。だが実際には、それをほんとうにリアルタイムで目にすることができるのは限られた人なのであり、そこでイベントを目にすることができない様々な事情を抱えた人たちは、ソーシャルメディアなどで共有される「美しかった」「素晴らしかった」という感想に、鼻白む思いをするかもしれないのである。
心-権力が用いるメディア的な「美」は、論理ではなく感性に訴えかけるものであるがゆえに、同じような感じ方をする人が増えるほど「エモく」なるという特徴をもつ。だから、「どうせ見られないし」「別に美しいとは思わない」という感想に対しても、感情的な反発を呼び起こすことになる。もしかすると、人々の一体感を生み出すために企画される種々のメディア・イベントは、現実にはばらばらに自己本位化された社会の中で「エモくなる人」と「なれない人」の、さらなる分断を深めるものになるかもしれない。