大学の「裏のカリキュラム」

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大学を取り巻く複雑な状況

ここのところの教育関連のトピックで話題なのは「9月入学」だ。この問題についてはサブブランドサイトの4月29日付音声配信で「9月入学論はKPIの定まらない、多様な目標が相乗りしたプロジェクトになって頓挫するだろう」と予想していたのだけれど、果たせるかなその通りになった。もちろん、失われた学習機会の回復や保証、以前からの問題だった教育格差、オンライン授業への対応など、それこそ多様な目標のいずれも重要な論点であって、問題の解決そのものは先送りするべきではないけれど、それらを一気呵成にひとつの策で解決しようとするのには、根本的な無理があるということだろう。

こうした流れを受けて、複数の大学が入試日程を発表している。僕の勤める大学を含めて近畿圏の私大は「例年通りの入試日程」になることを発表している。6月というのは一般的に受験広報がスタートする時期で、関連情報も含め、おそらくはコロナ以前から決まっていた「スケジュール」なのだと思う。

ただ、現実的な先行きは不透明だ。多くの大学で「6月以降、段階的に入構規制を緩和し対面授業を開始する方向で検討する」とは言っているものの、これは大人の方便であって、実際にすべての活動を再開させられる目処が立ったとは書かれていない。特に大規模私大は、キャンパスが過密になるほどの学生を受け入れて運営するというビジネスモデルだったから、密集を避けて授業を再開することが原理的に不可能だ。

「すべての授業がオンライン化される時代が来る」とか「いよいよ大学の序列が激変する時代になる」といった煽りは、経済誌やジャーナリストに任せておこう。あるいは、実技を伴う初等教育や体育の教員資格、これからの高齢化社会を担う介護の人材育成などの教育がどうなるのか、もっと話題になるべきだと思う。大学の中の話で言えば、たとえば数年単位でキャンパスの施設が利用できないとなった場合に、学校法人の会計上の扱いはどういうことになるんだろうという興味もある。でも、これらのトピックについては門外漢だし、きっと誰かが教えてくれるだろう。

僕らの仕事は、極端な想定でモデルを立て、そこから演繹された仮説をもとに未来のシナリオを論じることだ。そういうわけで今回は、「もしも文系学部においてすべての対面授業が禁じられる社会が来たら」という、もっともシビアな(ただ、現状が既にそうなっているのだけれど)シナリオの先にある「大学の未来」について考えてみたいと思う。

オフラインサロンとしての大学

そもそも文系学部では何を得ることができるのだろう。受験生の多くは、知識やスキルの獲得などの「学び」が大学の本質だと考える傾向にあるし、それはだいたい間違っていないのだけれど、やや不十分だ。大学1年生向けの科目を設計するにあたって、多くの導入科目の教科書やシラバスに目を通したのだけれど、そこで強調されているのは、大学が「研究者の行う研究会の学生版」としてゼミを開講してきたこと、そしてそこでは「教えてもらう」のではなく、「自ら他者とコミュニケーションをとり、発信する」ことが求められるということだ。

民間企業への就職という出口を見据えた言い方をするなら、「プレゼンテーション・スキルの向上」ということになるだろう。あるいは「コラボレーション・スキル」なんかも含まれるかもしれない。人と対話したり協力したりしながら、新しい知識や価値を作り出すという活動は、サービスや情報の価値が求められる時代における本質的な仕事につながる、意味のある経験だといえる。

これらは大学が勉強の機会として提供している「表のカリキュラム」だが、もちろん「裏のカリキュラム」も忘れてはいけない。大学は、勉強以外にもサークルやその他の活動を通じて、多様なコミュニティを形成する場になってきた。高校までの「部活」が、たとえば大会での実績を上げるという大きな目標に駆動されがちだったとすると、大学でのサークル活動の多くは、そこからプロになるための修練の場ではなく、同好の士が集ってコミュニティを形成するために設立され、維持されている。

そして、それを支える場として大学には、「モラトリアムの維持」という機能がある。全員を同じ時間割で縛り付けて行動管理するのではなく、それぞれが自分の履修したい科目を履修し、好きなサークルに入り、自分の都合でバイトを選び、そしてそれらの間の時間の管理を、自己都合で行っている。勝手に学校を休むこともできるし、会いたくない人と長期間一緒にいないといけないわけでもない。「自由すぎて関係が希薄になる」と言われることもあるけれど、ゆるやかな集団のつながりの中で、似たような人たちと過ごしながら将来について考えるモラトリアムを許容される場として、大学のキャンパスは存在している。

重要なのは、これらの機能はそれぞれ独立しているのではなく、有機的に連関していたということだ。サークルの仲間に楽勝科目の情報を聞いたり、先輩から就職活動の苦労を聞かされたりすることが、大学生活の設計に影響を与えることもある。同じゼミでコラボレーションを経験することで、卒業後も維持されるコミュニティが形成されることもある。ある目的のために利用されるのではなく、それ自体が目的となるような状態を社会学では「コンサマトリー(即自的)」と呼んで、目的のために利用するという「インストゥルメンタル(道具的)」という概念と区別するのだけれど、大学の様々な機能は、コンサマトリーなものがインストゥルメンタルになり、インストゥルメンタルなものがコンサマトリーになるという、部分だけを切り離しにくい有機的な関係性をもっていたのだ。

言ってみれば、大学というのは「年会費100万円のオフラインサロン」だ。ユルゲン・ハーバーマスというドイツの社会学者は、人々が公共の問題に関心をもち、議論する場としての「公共圏」が、ヨーロッパにおいてはコーヒーハウスと並んでサロンから発生したことを明らかにしたのだけれど、オフラインというより、そもそもサロンってそういうものですよね、ということだ。

大学のオンラインサロン化

そう考えると、大学の授業がすべてオンライン化され、対面接触ができなくなるということは、このサロン機能の有機性が解体されることを意味する。知識やスキルの伝授、獲得については、ある程度までオンライン化できるし、むしろ効率化されることもあるだろう。科目選択も受講態度も自己本位的になるから、自分にとって意味のある科目を選択したいという欲求も高まるかもしれない。この点はポジティブな効果だ。

プレゼンテーションやコラボレーションについては、やはり大きな制限がかかる。画面越しの議論で対面のときと同じような価値の創出ができるかと言われれば難しいかもしれない。そもそも学生の多くはそうした経験がない。ネットの書き込みの言葉尻を拡大解釈して傷ついてしまうような人にとっては、オンラインでのコミュニケーションが基本になると、それだけでストレスだろう。とはいえ、就職活動においてもビデオ面接は以前から取り入れられていたし、テレワークが進む社会においては「対面しないと議論できない」ということでは困るわけで、これもある意味「慣れていくしかない」ものではある。

他方、裏のカリキュラムというか、コンサマトリー性の強い活動については、強い制限がかかることになる。対面授業を一部で再開するとしても、ダンスや演劇、軽音などの密閉空間で活動するサークルが再開される見通しは立たないし、学生街の居酒屋で飲み会なんてもってのほか、となるだろう。アルハラが話題になる近年では、ある部分でポジティブな効果とも言えるが、練習スタジオや居酒屋、そこでのアルバイト、あるいはキャンパス近くの学習塾の講師といった地域経済圏が受ける影響も加味すると、「駅前で騒いでいる学生がいなくなって助かる」というレベルの話ではないかもしれない。

そしてモラトリアムの意味も変わるだろう。本来、モラトリアムというのは文字通りコンサマトリーな時間、つまり「将来のため」「就職に役立つ」といったことと無関連であればこそ機能するものだった。意味のある授業を選択し、画面でしか見たことのないゼミ生とプレゼン資料を作り、まるでリモートワークの練習のような大学生活のなかに「他の人は将来についてこんなに考えているんだ」と刺激を受けたり、課題の話をしているうちに脱線して好きなアーティストの話になって意気投合したり、という余裕はない。僕も自分の勤め先で学生の交流の場を設計してきた経験から痛感しているけれど、こうしたことは、日付と時間割と目的を決めて、1回限りで開催しても絶対にうまくいかない。「誰も来なくても、いつでも、誰が来ても受け入れてくれる場所」があって初めて、偶然に生まれるのである。

そのカネで何を買うか

強調しておかなければならないのは、そうした「裏のカリキュラム」は、「表のカリキュラム」にも影響を与えているということだ。サークル室にばかり顔を出してちっとも勉強しないということもあるし、意気投合した仲間とだから課題への取り組みがスムーズになるということもある。どちらの道を通っても、ほどほどに「いい結果」と呼べるような何かを得て卒業していくケースがほとんどだ。

価格というものは、供給側の算出する費用によって決まるのではなく、需要側の支払いたい額と一致したところで決定されるという経済学の原理に従うなら、大学の学費を支払うことで得られる効用の多くに、この「裏のカリキュラム」や、そこから得られるものへのそこはかとない期待があったことは間違いない。もしもすべての講義をオンラインで行うということになれば、当然、得られなくなった効用に見合うだけの価値を提供することが大学、教員には求められることになる。教員は「サークルもないから真面目に授業受けてるのに、こんなレベルじゃやってられないっすよ」という文句を受け止める覚悟が必要になる。

しかしながら現実には、こうした極端なモデルが現実のものになることはないだろう。そもそも大学は、「裏のカリキュラム」も含めて大学のキャンパスに設備投資をしており、それは休園中のテーマパークがライドの維持に投資するのと同じで、「再開」を前提にしている。そして複数の大学が、そうした設備を維持するために学費の減額は行わないと宣言しているので、通常通りの学費を課すのであれば当然、その年度内の十分な期間、キャンパスの利用を可能にする義務がある(正確には在学期間中の費用を年単位で分割しているという前提だが、卒業する学生もいる以上、数年後に可能になりますという理屈は通らないだろう)。

もちろん、そこで再開されたキャンパスが、裏のカリキュラムについて十全な機会を提供することは難しいので、ものごとはあくまで程度問題だ。個々人のソーシャルメディアやSlackなどのツールを通じて、一部分をオンラインに依存しながら「裏のカリキュラム」の新しい様式が生み出されていく可能性もある。ただその費用が大きくなればなるほど、裏のカリキュラムへのアクセスも限定されてくることを考えれば、そして表のカリキュラムと裏のカリキュラムが有機的に結びついていたことを思えば、「全面的なオンライン化」というのは、誰にとってもよくない結果を導くものになるだろうと思う。

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