「大学生の日常」のために、大学ができること

雑記

普段にも増して、コロナ禍の状況でネットを見なくなった。SNSなんて心の健康に悪いだけだ、と思っているからだけど、もちろん情報収集を怠るわけにはいかないので、どうしても目に入ることはある。そんな中で読みながら心が痛くなったのが、こちらの一連のツイート。

いわゆる「リプ欄が地獄」というやつだろうか。美大に通う1年生の学生が、なぜ大学だけは対面が許されないのかと嘆くのに対して、なぜか批判的なリプライが続き、それに対する批判のリプライが連なり、という流れ。そして拡散されていくに従って「自分もまったく同じ」「共感する」というリプライが増えていく。こう書くといかにもネット炎上について記事にしているみたいでそれも気が重いのだけれど、自分が当事者であることも含めてどうしてもスルーはできず、珍しく上から下まで読んでしまった。

社会全体として「自分だって我慢しているのにあいつらときたら」「あいつらのせいで真面目な自分が迷惑している」という怨嗟が蔓延し、根拠もなく特定の属性だけで叩いても許される(そして、そういう人を叩き返すのも許される)となってしまう、社会心理的なメカニズムにも興味はある。というより、あまりに見ているのが辛いし、自分自身もそういう恨み言を吐きたくなることが多々あるので、どうにか科学的なメカニズムで解明してくれないものかなと思ってしまうけれど、それは今回の本題じゃない。

「大学生の日常も大事だ」というなら、大学に勤める人間としては、それをどうやって回復したり保証したりするかを考えなくちゃいけない。もちろん自分にできることの範囲は限られているし、この数ヶ月、「こういう風にするのがいいと思って働きかけてるけど、まだ確定してないから詳しく言えないんだごめん」「できるって言ってたあれ、やっぱり無理になった」みたいなやりとりを何度も繰り返してきた身としては、勝手な意見を開陳して、結果的に自分の組織や自分ができることを狭めてしまうリスクは避けたい。以下に書くのは、あくまで僕の個人的な見解であり、組織としてそのような対応を進めるとか、その結果を確約するというものではない。そういう了解のもとで読んでもらえたらと思う。

1.課題解決のために取り組んでいることを示す

凡庸だが、何よりも重要なのは、解決策を示すことのできる立場にある人間が、細かく情報発信を行うことだ。なぜならば、それが大きな集団のモラルハザードを抑制する手段になるからだ。

いま、街なかには大勢の人が繰り出して、飲み屋さんでも大盛況というところもある。若い人でも密集して遊んでいるのを見かけるし、そういうSNSの投稿も目につく。その背後には「どうせもうすぐ禁止されるし、いまのうちに遊んでおこう」というマインドがあるように思う。一度「自粛」を経験した人々は、それをコロナと並ぶ生活上のリスクと捉え、感染よりも優先して解消すべき課題として取り上げるギリギリのラインをうかがっている。いまはまだ、遊ぶ方を優先して大丈夫、もうそろそろダメかもしれない、そういう綱引きの中で行動を選択する人は、一定数いる。

そんなわけない、いま飲みに行く連中なんてみんな頭のおかしい、リスクの見積もりもできない阿呆だ――そう言いたい気持ちもわかる。ただここで言いたいのは、組織、集団においてトップが「解決に向けて動いている」ことを示さなければ、「どうせ自粛したとこで感染者は増えるしまた外出禁止になるんでしょ。そしたら真面目に自粛するだけ損じゃん」という人が増えてしまうということなのだ。

そこで必要になるのは、行動制限と緩和の基準を明確化するということだ。これについては複数の自治体で様々な名称の基準が発表されたものの、どうもなし崩し的に有耶無耶にされたように見える。ただどちらにせよ、組織によって安全基準は違うのだから、大学には大学で、その規模や専門に応じた基準を設ける必要があるだろう。実際、勤め先だけでなく多くの大学が、そのような「レベル」を示し、「このようになったら大学に来てもいい」というラインを示している。「タイム・リミットの無いがんばりなんて続かない」と歌ったのは宇多田ヒカルだけれど、ここまで我慢すれば学校に行けそうだ、というラインがあるとないとでは、気持ちに与える影響の差は大きい。

もちろん、基準を出すだけでは足りない。必要なのは「制限はあくまでイレギュラーなものであり、我慢している人たちと一緒に、自分たちも日常の回復に向けて努力しているのだ」というアナウンスメントを発し、マインドを共有することだからだ。そのためには、それまでの経過、方針決定の基準、決定までの時間的見通しなどを、定期的に、顔の見える人間が発信する必要がある。ここまでのことができている大学は、そう多くないかもしれない。

2.具体的で簡潔な行動指針を示す

次に、上記のような指針のうち、全員が理解しないといけないことや、全員が同じように守るべきことを、簡潔に示す必要がある。問題に対する関心が強く、発信された情報を読み込むリテラシーのある人ばかりが、行動制限の対象になるのではない。手前勝手な解釈で「でもこれは大丈夫なんでしょ」と言い出す学生は、どこにでもいる。人間には行動の自由がある以上、箸の上げ下ろしまでガイドライン化して守らせることは現実的に不可能だ。日常生活や登校時、対面時において絶対に守らなければいけないことを絞り込み、余計な解釈をしなくて済むくらいに簡略化して提示しなければ、こうした人にまで行動制限を浸透させることは難しい。

社会的には「三密を避ける」というめちゃくちゃ優秀なキャッチフレーズがあるけれど、やはり大学生活全般に適用するには目が粗い。そもそも大学というのは密になることを価値としてきた部分もあるので、実際に密集してわいわいしている学生を見かけても、誰が、どんな権限で、どういう風に注意するべきなのか判断に困る。というか街なかでもそれをすると相手からは自粛警察扱いだろうから、同じ立場の学生どうしではもちろん無理だし、さりとて教員が言ったところで、となるのも仕方ない。

あくまで自分の権限の及ぶ範囲で、というところだけれど、対面授業の実施にあたって、最低限のガイドラインとなるピクトグラム的なものを用意した。認知科学の最新の知見に従って、目につくのは5点以内。特に強調したい2点を大きくするというデザインにして、A4で印刷して学内に張り出しても、近づけば読めるギリギリの範囲で細かい注意事項を記載した(実はこれでも正本のガイドラインをすべて列挙できているわけではない)。

対面授業に向けて用意した資料

むろん、これでも完璧とは言えないだろうし、感染リスクというのは個々人の行動だけでなく、環境要因によって変動するものだから、ある行動指針を守れば大丈夫ということはない。裏を返せば、他人が一人もいない状況で「気をつける」ことにも意味はない。ただ事はそういう論理的な水準ではなく、現実的な行動抑制(ないし行動促進)をどのくらい実行できるかという基準で回っている。不完全なところがあれば直せばいいし、修正にあたってその根拠を発信することとセットにするのであれば、基準の変更もあり得る、そういう態度で臨まなければならない。

3.代替となる機会を用意し、再開に備える

上記は「いつまで我慢するか」「どうやって過ごすか」という具体策の話だが、さりとて「人と会話がない」ことの問題は解消されない。もちろん会話といっても授業に関する質疑やディスカッションから、周囲との学びに関する情報交換、そして雑談まで幅広い。そしていま、登校が禁止されることで失われているのは、「質問」のような明確な目的を持たない(専門的に言えばコンサマトリーな)コミュニケーションの場と機会である。

困ったことに、実は大学には「雑談を支援する専門家や専門機関」は、通常用意されていない。こういうと笑われそうだが、僕自身は数年前に今のカリキュラムを立ち上げるに当たって、学生同士が交流する仕組みを学部として設置し、支援する体制を整備した。5年前に書いた記事では、学内における流動性の高まり、「よっ友」の増加、インタラクティブな授業の増加といった要因を挙げて、こうした支援体制の必要性について説明している。僕の知る限り、勤め先以外にもこうした学生の団体を学部として組織しているところは存在している。

もちろん、制度を整えればいいというわけではなく、しかも実際に支援を担当するのは学生や若手の教職員だ。あまりに現場任せになってしまうとすぐにブラック化するので、オフィシャルに取り組むべき範囲は明確にしなければいけない。僕の考えでは、大学はあくまで「交流の機会」を提供し、そこでのやりとりについては各自の責任に任せること、そして、参入離脱の自由な場として運営すること、なにより、学修や成績評価に関わらない人間がイニシアチブをもつ(要するに教授にゴマを擦るとかゼミ生のリクルーティングの場にしない)ことが、形として理想的だと思う。

オンラインにおける「集いの場」の具体的な設計には、まだまだ選択肢があると思う。個人的にはzoomだけでは不十分だと考えている。たとえばオンラインでのやり取りに慣れている学生であれば、Slackで一定期間コミュニケーションや自己表出の機会を用意したほうが、「対話」の中にスムーズに入りやすいというケースもあるし、時間を決めるのではなく、リアルタイムのオンライン授業で一緒になった流れでいつでも立ち寄れる時限付きのオンラインビデオ通話の場を用意するのもアリかもしれない。

こうした取り組みの目的は、あくまで「代替」にしかなっていないオンラインのコミュニケーションの場を、登校が再開するまでの準備、あるいは再び登校制限がかけられた際の避難場所として活用するということだ。もう永遠にテレワークでいいですっていう贅沢な会社員がどのくらいいるのか分からないけれど、僕の見聞きしている感触では、あくまで登校制限こそがイレギュラーであり、(授業を受けたいかどうかは別としても)大学で人と交流したいと考えている学生が目立つ。その機会がくるまでの場繋ぎとしてオンラインを活用する、と言えば、オンラインであることの不便さも、個人差があるとはいえ耐えうるものになるのではないか。

繰り返すがもちろん完璧ということはない。そもそも大学における学生の交流は大学の管理の外側の事象であり、教員も、友だちづくりが得意だったからこの職についたわけでは決してない。だから、どんな取り組みでも不十分とのお叱りを受けるのは致し方ないと割り切って、それでもやれることはやる、という姿勢で臨むほかないのだろうと思う。あまりよくないなと思うのは「大学が頼りないから自分のところだけはちゃんとやっている」というやつで、これは学生からすると「自分の環境はハズレなのか」という意欲喪失を招く結果につながりかねないので、できる限り組織的に対応しているというアナウンスメントが求められているのではないかと思う。

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