オンライン化で失われたもの

もしも僕がいま、二十歳の大学生だったら、それはもう相当に怒っていたと思う。

高校までは再開して、アルバイトでは感染対策をした上で通常の業務を行うのが当然と言われ、それなのに大学は年度内ずっとオンライン。大学からの説明は不十分であるか、説明があったとしても「大学への通学は感染リスクが高いから仕方がない」「ただし学費は満額いただきます」だ。大学教員のブログを見れば「大学は感染対策を甘く見ている。今後もずっとオンラインの覚悟を持つべきだ」「大学は不当に批判されている、私たちも頑張っているのに」とくる。ついでに言うなら、学生の授業環境の改善について指針を示すのではなく、おおむね大学の対応に文句をつけ、学生にもそのような見解を共有するだけであることも多い(なお、給料とボーナスが例年通り支給されていることについては伏せられている)。

もちろん僕は教員側なので、そうした学生の主観的な思い込みには、いくつかの間違いがあることも知っている。ただ、その主観に基づく憤りに対して「君は間違っている」と返すのは、お金をいただく側が払う側に対してとるべき態度ではないだろうとも思う。それは普通に「何様のつもりだ」という話だ。

だから、いま起きていることについて、できる限りの見解を示し、情報発信することは大事だと思う。当たり前のことだけれど、組織に属している大人は、自分の都合だけで組織のことを決められない。けれど、一人ひとりができる限りの個別対応をして、「自分にできることはこれで精一杯だから、あとは大学に文句を言ってくれ」というのは、やっぱり無責任だろう。

このエントリでは、最近になってまた噴出した大学の対応に対する批判を検証し、実際のところ問題にされるべきはどこだったのか、どういう改善の方向があり得るのかについて述べてみたいと思う。残念なことに、すべては僕の個人的な見解であり、組織としてこのような対応をすると決まっているわけではない。ただ、一部については自分の権限でもできることではあるので、考えておくことに価値はあるだろう。

二ヶ月遅れの大学批判

おそらくは大学の前期が終了したからだろう。8月に入って、いくつかのメディアで「大学批判」が噴出した。たとえば朝日新聞は、8月4日付けの記事で河合塾との共同調査の結果を公表し、「400大学以上が独自の学生支援金」「学費返還はほぼ応ぜず」との見出しで、金銭面での大学の対応について紹介。同5日付の記事では、「オンライン授業 憤る学生」との見出しで、オンライン化によって授業の質が低下しているという学生の声――つまり学生の主観的な評価――を紹介している。同じ記事では河合塾との共同調査の結果、大学側も課題を認識していることが示されているが、実際に問題のある授業がどの程度の割合なのかについては明確な根拠が示されないまま、「大学の対応にはずさんさが目立つ」と評されている。

また『週刊ダイヤモンド』8月8・15日合併号の記事では「『もう限界』学生の怒りが爆発」との見出しで、同編集部のツイッターアカウントに寄せられた学生の声(総数123件)を紹介している。そこでは「オンライン授業の質の低さと、課題の異常な多さ」「友人が全くできないこと」などが問題として挙げられたとされている。また、学費返還運動にも触れられている。ただしその前後のページで、大学側が学費返還に応じられない理由についても紙幅を割いて説明していることとの整合性は、この記事の中には見られない。

大学の状況に対して学生が不満を抱いていることの根拠をツイッターの投稿に求め、なんの裏とりもせずに紹介することが「報道」に当たるのか僕には疑問だが、それを抜いても、現場の感覚としては「2ヶ月前の状況」についての報道であるように思う。6月上旬は全国的に見てまだ感染状況が落ち着いていた時期であり、「なぜ大学は再開しないのか」という批判を受ける余地もあったし、問題のある講義の実態把握を行っている最中でもあった。だがその後、運動部に固有の事情からまず体育会の部活が再開され、その後いくつかの授業で登校しての授業が行われ、さらに全国的な感染再拡大を受けて、こうした学生活動の中から複数のクラスターが発生したことで、これらの記事にある主張は、かなり的はずれなものになってしまった。

現場の実態はどうだったのか

じゃあ現状はどうなっているのか。僕自身、見聞きしている範囲の話しかできないけれど、ここで挙げられている「講義の質」「学生の孤立」「学費の減額」について、それぞれかんたんに触れておきたい。

まず講義の質について、ダイヤモンドの記事では、パワーポイントに音声をつけただけの資料も「課題提示型」として手抜き授業の例とされているが、これは明らかな間違いで、オンデマンド講義の一部だ。同特集ではオンデマンド講義を予備校のようなビデオ配信型のものに限定して捉えているようだが、春の段階ですでにビデオ型講義はスマホでしかネットに接続できない学生の通信量およびネットのトラフィックを圧迫するので控えるようにという話になっていたはずだ。またリアルタイム講義についても、同様の理由で講義の模様を事後にビデオ配信するなどの配慮が求められる。要するに講義科目では事実上、多くの科目がオンデマンドでも受講できるようになっていたわけだ。

またあちこちで問題になった課題の量だが、これもいくつかの要因がある。文科省のガイドラインでは、資料を提示するだけの授業ではだめで、なんらかのインタラクティブ性がなければいけないということになっていた。いわば「出席代わり」に課題を課すことが必要条件とされたのだ。問題は、それが全科目で相互に調整のないまま担当者に委ねられたことと、教員も学生も、その量の課題を処理するだけのリソースがなかったことだ。

さらに「適切な課題の量」がどの程度なのかという問題もある。資料やビデオを掲示して、毎回簡単なアンケートに答えるだけならば、これほどまでの負担にはならなかったはずだが、それは果たして「課題」と呼ぶべきなのか。授業のビデオを見たことを確認するためだけの3択クイズに毎回答えていればいい、というのは、それはそれで批判を呼ぶだろう。これには、理系に比べ学習時間が短い文系の特質だとか、それだけ勉強が楽であるがゆえに、余裕のない家庭でもアルバイトをしながら大学に通えるという経済的な問題があるので、オンライン云々の話だけではない。

次に、学生が孤立して精神的に不安定になっている問題。これは学習・生活リズムが乱れたことによる心身の不調の問題と、文字通りコミュニケーションが断絶していることの問題、そして、大学以外では各種活動が再開していることに対する相対的剥奪(基準となる集団と比べて感じる不公平感)の問題がある。

これについては、大学側でも人数を制限して登校させたり、オンラインでの交流会を通じて友人づくりのきっかけを作ったりと、様々な取り組みを行っている。一部ではすでにサークルに所属して、オンラインながらも活動を開始している学生もいる。むしろ事態は、いまだ入国できない留学生や、実家など大学の遠方に在住している学生、通信環境が整わずにオンライン授業にコミットできない学生の支援といったピンポイントの課題の検討に向かいつつある。

そして学費についてだが、ここは最後まで折り合いのつかない問題になるだろうと思う。様々なところで触れられているとおり、大学の学費の多くは設備投資に充てられていて、かつ現役の学生の学びの環境は、既卒の学生も含めた先輩たちの納付金で賄われているから、今年大学に入構できないからといって金を返せという話にはなりにくい。だが数年単位でオンライン授業が続くのなら、当然、学費の算出根拠の見直しという話にはなるはずなので、かなり長期的な問題になるだろう。

ただ押さえておくべきなのはむしろ「質が低いのだから金を返せ」というのは、学生にとっても危ういかもしれないということだ。つまり「同じ額を取れないぐらいに質が低下したのであれば、同じ単位を保証することもできない」わけだから、「減額を認める代わりに、今年の授業の単位はすべて半分で計算します。卒業まで8年かかりますがいいですか」という理屈が、論理的に成り立つ。本気でそんなことを言う人はいないかもしれないが、やはり注意すべき点かなと思う。

オンライン化で何が失われたのか

僕の見るところ、オンライン化の問題点は、上記の「質保証」「孤立」「学費」ではなく、もっと別のところで学生たちの機会が失われたことにある。それについて、以下で説明しよう。

まず失われたものとして大きいのは「学生どうしの横の相互扶助」だ。よく「オンライン授業だと隣の人にわからないことを聞けない」という話があるが、これは殊の外深刻な問題だということがわかってきた。

そもそも、オンライン化する以前から、学生は対面講義ですべての内容を問題なく理解し、吸収していたわけではない。むしろ、何度聴いても理解できないとか、そもそも真面目に聞く気がない学生も多数いた。それでも問題が起きていなかったのは、学生間での相互扶助が働いていたからだ。分からないところを聞く・教えるというものもあるが、より不真面目なところでいえば「楽勝科目を先輩から伝授してもらう」「友人(多くは学期末が近づくと急に友人だったことにされる)の講義ノートを撮影させてもらう」とか、いわゆる「代返」まで含めて、学力・意欲面で課題を抱える学生であっても、どうにか助け合いながら卒業したのだ。

これは同時に、いわゆる「学生時代の友人関係」を形成する重要な要素だったわけだ。だから学生どうしの相互扶助は、教員にとって講義の外部経済だったということができる。この外部経済が失われるとどうなるか。学生はすべての質問を教員に投げかけることになる。教員は授業のために教室を訪れた時間だけでなく、24時間ひっきりなしにやってくる学生の質問メール――その中には、自分の課題のクオリティについて切迫した不安を抱いており「即レス」が求められるものも多々ある――に返信しなければならなくなる。

さらに困ったことに、こうした問い合わせは、教員がオンライン授業やその運営に不慣れであればあるほど発生する。結果的に疲弊した教員が「逆ギレ」して、学生の質問を突っぱねる、無視するという行動に出ると、報道にあるような事態が生じるのではないかと思われる。

次に、「学生どうしの協働の経験」が失われている。この場合の協働とは、授業だけでなくサークル活動なども含んでいる。もともと、特に文系の学生が大学での成績をさほど問われてこなかったのは、その多くが営業などの対人業務に就き、そこでも専門性よりは人柄が重視される環境があったからだ。だから、サークルで幹部を担い、多くのメンバーをまとめる経験をしていれば、自社の製品を売り込んだり、案件を落としたときに立ち直るメンタルがあると判断されたわけだ。

これがいわゆる、大学の「裏のカリキュラム」だった。ところで、文部科学省の調査によると、2019年の大学生の生活時間のうち、サークルで活動する時間が「ゼロ」だった学生は56%にのぼるという。経年の変化はわからないが、近年の学生が、授業時間外をサークルに充てているというモデルはマジョリティではない。一方で、近年のアクティブ・ラーニングの流行もあって、大学は学生間の協働をカリキュラムの中に組み込むようになっている。つまり「裏のカリキュラム」は表のカリキュラムになりつつあった。そこにオンライン化のインパクトが飛び込むと、カリキュラム内での協働の機会も失われる。最悪の場合、卒業まで一度も他の学生と一緒に何かを成した経験がないまま多数の学生が就活を迎えることになる。

最後に、ここまで書いたことを含めて、学生と大学の信頼関係が失われつつある。もともと学生と教員が仲良しだったわけではないだろうが、人は、赤の他人であっても毎週顔を見ていれば、それなりの慣れ親しみを持つものだ。社会学では「ファミリア・ストレンジャー」と呼ぶこうした関係があればこそ、学生は教員の取り組みに対して「厳しい教授だ」などの不満を持ちつつもそれなりに受け入れてきたし、教員も学生の態度が不真面目であったとしても、「卒業もかかってるそうだし、仕方ないか」と妥協してきた。この関係が崩れれば、学生は教員を学費あたりの効果を提供することができる相手かどうか、教員は学生が単位を取得するにふさわしい学力をもっているかどうかだけで互いを評価するようになる。要するに大学が「成果主義化」する。それによって得をする人よりは、損をする人のほうが――大学生を採用する企業も含め――多いのではないか。

これから何ができるのか

上記の3点、すなわち「学生間の相互扶助」「協働の経験」「信頼関係」をどのように回復すべきだろうか。それを考えるためには、そもそも大学がコロナ禍において何を避けるべき事態とするか、というKPIの設定が欠かせない。僕の考えでは、大学は学生とコロナの関係についてあらゆることを自らの責任として抱え込み、多くのことに対応しなければならなくなっている。まず、大学が提供できるのはあくまで「表のカリキュラム」であって、学生間の関係づくりや学習活動以外のプライベートの活動は、学生の自己責任の範囲であり、たとえばサークルの飲み会でクラスターが発生したところで、過大な責任を負う必要はないのだ、という原則に立つべきだろう。

その上で、いま批判されているような問題に対処するためには、オンライン授業の環境を整える必要がある。特にやらなければいけないのは、大学内に感染防止対策をほどこした発話のできるパソコンブースを整備することだ。課題の多さも生活リズムの乱れも、学生の通信環境に配慮した最低限の情報のオンデマンド講義を配信せざるを得ないことから生じている。これをすべてリアルタイムで受講する、あるいは授業時間の最初と最後だけ出席がてらビデオ会議に接続し、あとの時間は課題をこなす形式に変えようとすれば、一部に限られるものの、接続環境やPCのスペック、ITスキルに不安のある学生から、大学でICT環境を提供するしかない。

また、裏のカリキュラムとしての課外活動における協働は、学内での活動は控えてもらうほかないが、学外での活動については感知も公認もしない、という形式にすることが考えられる。いまは「大学に行けない」ことが問題視されているが、その場合の「大学に行く」とは、対面授業を受けることだけでなく、サークル室や学生ラウンジでだらだらとおしゃべりすることを含んでいる。こうした環境を大学が提供するのは、少なくとも現状の判断基準を採用する限り数年単位で不可能なので、どうしてもそれがほしいのなら学外で。ただし感染によって登校停止になるリスクもあることを理解した上で、とするほかない。

もちろん、裏のカリキュラムを部分的に表にもってくることで、授業内ではあれ、学生どうしの協働の機会を保証することもできるだろう。その場合でも、人数を抑制したり、オンラインでのコミュニケーションの仕方について、ツールの使いこなしも含めたレクチャーを行ったりすることが求められる。

最後に信頼関係について。これは結局のところ、教員が最低でも「ファミリア・ストレンジャー」になれるような、定期的な顔見せと情報発信を行うしかないだろう。いわゆる責任者のレベルだけでなく、また学生向けに限定せず、ステイクホルダーに向けて、何をしようとしているか、そのために何を解決しなければいけないか、何を行うのが困難であるのかを発信する機会がなければ、「金返せ」「もう限界だ」と互いに被害者意識にまみれた学生と大学の関係改善はありえないだろうと思う。

最初に書いたとおり、僕がいま二十歳の学生だったら、間違いなく社会的に何らかのアクションを起こしていたと思うし、そのくらいには自分自身の対応にも不甲斐なさを感じている。大学教員の仕事は教育以外にも大学運営や研究があり、特に夏休みは研究に集中する期間ではあるのだけれど、だからといって「いつもの夏休み」でもだめなのだろうなと思っている。