「何をしているのか分からない」
社会学部の教員をしているとぶつかる壁のひとつに「社会学を宣伝することの難しさ」がある。社会学部の教員も学生も、「社会学部って何をするところ?」とよく聞かれるのに、それに答えられないというのだ。もっとも「じゃあ経済学部では何を勉強するか知ってる?」と聞いても「経済のことを勉強するんでしょ」という、おそらく経済学者なら間違いだと言うだろう回答しか返ってこないわけだから、「社会学は説明が難しい」というのも思い込みでしかないのだけれど。
一昔前の日本の教科書では、「社会学は常識を疑う学問です」なんて書かれていた。けれどこの説明も、もう古臭いものになっている(この辺についてはこの本や講義動画を参照)。最近の説明としては、日本社会学会の社会学部への進学を考えている人向けのサイトで示されている「異なる価値観をもった人間たちが多数集まって形成されるこの社会を解き明かす学問」というものがもっともしっくりくる。僕自身も高校生向けにはこのように説明するし、割と明快な定義だと思っている。ただ、結論だけを聞いて「なるほど」と納得できるほど分かりやすくもないので、このエントリでは、社会学という学問の営みや役割について、ごく簡単に説明してみたい。
社会学の仕事① 「社会の姿」を描き出す
まず、社会学者の重要な仕事のひとつが社会調査だ。いま行なわれている国勢調査をはじめ、社会の姿や営みについて数量的なモノサシで表現することは、社会学以外でもよく行なわれている。これを「量的調査」という。たとえば日本人の平均年収はどのくらいなのか、それは昔と比べて上がったのか下がったのかといったことは、調査してみなくては分からない。また調査するだけでなく、その中身について分析することも重要だ。日本人の平均所得が下がった原因には、高齢化によって所得の低い世帯が増えたことがあるけれど、それは所得低下にどのくらいの影響を与えるものなのかといったことは、「全体の平均」だけ見ていても分からないので、より詳しく分析してみなければいけない。社会学者は、こうした「数字で表される社会の姿」を明らかにする仕事をする。その中には、所得のような経済に関することだけでなく、「福祉を充実させるべきか」「教育はどうあるべきか」といった、社会についての人々の考え方や価値観も含まれる。
社会学者はまた、数字では表現しにくいことがらについても調査する。たとえば「お宅の子育てを中心的に担っているのは誰ですか。 1.父親 2.母親」というアンケート調査をすることがあるけれども、子育てにだって「ミルクをあげる」「お風呂に入れる」といったタスクが様々にあるし、「父親がお風呂に入れている間に母親が食器を洗う」という分担が成立する場合もある。家事は分担しているけれども、負担の重いタスクがどちらか一方に偏っていることもある。もちろんひとり親家庭もある。こうした、全体を決まったモノサシで測ることでは見えてこない方の「社会」について調べる「質的調査」も、社会学者の重要な仕事だ。
なぜ社会学者は社会調査をするのか。それは、多くの人が「社会」についてなんらかのイメージをもっていて、それに基づいて社会について判断し、語ることができるからだ。「いまの世の中はモラルを失っている」とか「若い世代はスマホばかり見ていて人間関係が希薄になっている」といったことを、誰もが語ることができる。でも、そのイメージがそもそも実態と合っていないことは往々にしてある。思い込みを含む社会のイメージに対して「ほんとにそうなの?」ということを確かめる、つまり「実証する」ということが、社会学が学問たるゆえんだということになる。
社会学の仕事② 人々の「よかれ」を記述する
しかしながら、学問というのは「調べて終わり」というわけではない。何かを調べるということは、調べる価値があるから、わざわざ調べるわけだ。そして、社会学の中でこれまで重要な業績だとされてきた研究の多くは、「何かを調べた結果、思いもよらないメカニズムを発見した」という点を評価されてきた。
たとえば、社会学の祖のひとり、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という有名な本がある。これは、古代中国にもローマにも発達した経済はあったのに、なぜ近代の西洋社会だけが、資本主義を急速に発展させたのか、という問いに対して、それは人々が贅沢を求めたからだという通説を否定し、実は倹約を旨とするプロテスタントの考え方(倫理)が要因になったのだ、ということを主張した研究だ。いまではヴェーバーの主張は歴史的に見て正しいとは言えない、という理解がスタンダードであるようだが、社会学部ではいまでもヴェーバーの研究を紹介している。
その理由は、『プロ倫』の主張が、まさに社会学的な発見のモデルケースになるからだ。ヴェーバーは「意図せざる結果」という言い方をするのだけれど、本人たちはそんなつもりがなかったのに、そういう人たちが集まって社会を形成し、ある営みを経ると、当初は思ってもいなかったような結果になるという思考のパターンを伝えるために、社会学者はいまでもヴェーバーについて講義するのである。
こうした「本人たちはよかれと思って行動したのに、思ったような結果にならない」という例は、現代でも散見される。被災地のためにと思って物資を送ったら、物資の整理や備蓄、分配の仕事が増えてかえって被災者支援を妨げるとか、「マスクの買い占めはやめましょう」とアナウンスすることで、逆にマスクを確保しようとする人が増えて品不足が起きるとか。
重要なのは、このとき社会学は、人々を「正しい知識を身に着けていない情弱だからデマに踊らされる」といった見方を取らないということだ。大事なことなので二回言う。社会学は、社会を生きる人々に対して「アホな連中だ」といった決めつけをせずに、「この人たちはこの人たちなりに、なにかをよかれと思って行動しているはずだ」と想定し、なぜそんなことをするのだろうと問うのである。
A.R.ホックシールドという社会学者は、自身がリベラルでありながらも、トランプ支持者に対して「なぜこの人たちは貧困であるにもかかわらず、貧困者を優遇するわけでもないトランプを支持するのだろう?」という疑問を抱き、実際にトランプ支持者たちのコミュニティに入って一緒に生活し、インタビューを重ねている。『壁の向こうの住人たち』というこの本は、色々と賛否もあるものの、やはり「人はなにかをよかれと思って生きている」という前提に立つ社会学の基本的なスタンスから現代のアメリカについて問うた研究だと言えるだろう。
社会学の仕事③ あるべき社会像を探索する
社会学者はできる限り客観的に社会の姿を描き出すだけでなく、一人ひとりがよかれと思っていることが何であるかについて、決めつけをせずに調べていく。この「決めつけをしない」というのをヴェーバーは「価値自由」と呼んでいるのだけれど、でも、「決めつけをしない」と「そのままを受け入れる」というのは違うのだということも言っている。
先に紹介したホックシールドも、もともとはリベラルだから、トランプ支持者の言うことが理解できないという場面にまま遭遇する。言ってみればその時点で彼女は、「この人たちはトランプの言ってることが間違っていることを理解していない」という決めつけを、どこかでしてしまっている。でも、目の前にいる人たちは、意見が違うところを除けば普通の人たちで、礼儀正しく温かく接してくれる。だからホックシールドは苦悩する。
この苦悩はそのまま「どうやってこの人たちと一緒に社会を営んでいけばいいのか」という誠実な姿勢の現れでもある。他人の価値観や行動を自分の立場で決めつけないけれども、そうした人々について調べるということは、結果的に「異なる人々同士が、それぞれの多様性を認めあいながら共生する社会」を目指すことになる。逆に「あんな頭のおかしい奴らは死刑だ、国外追放だ、思想矯正だ」と喚き立てることは、共生という観点だけでなく、調べもせずに相手を決めつけるという点で、社会学的な態度とは言えない。相手と同じ立場には立てない。だからこそ決めつけをせずに相手のことをよく調べ、その人たちがよかれと思っていることや、その行動がどういう帰結を導くのかを客観的に明らかにしていくことで、社会学者は、多様な人々が共生する社会をつくりだすことに貢献しようとする。
こうした点で、社会学は「社会がどうなっているか」について記述するだけでなく、「どういう社会であるべきか」について一定の価値判断をして、それを示す(強制はしないけど)という役割も担う。その程度は社会学者によって違うけれど、「私は調べただけなので、それの意味するところには関知しません」というのでは、文字通り「調べる意味のない調査」ということになるだろう。
自意識過小の社会学
とは言うものの、やはり学者という立場の人間が社会についてなんらかの調査を行い、その結果と自分の価値観を照らし合わせながら、あるべき社会について提案するというのは随分と思想的に偏った営みのように見えるのは確かだ。実際、アンソニー・ギデンズという社会学者が、自身の社会学的研究の成果を踏まえて生み出した「第三の道」という政治理念は、トニー・ブレア政権において実際の政策に組み込まれたこともある。第三の道は、環境への配慮やジェンダーの平等といった点で非常にリベラルな理念なので、学問なのかイデオロギーなのか切り分けの微妙なところで、人によっては「あれは社会学ではない」という判断をするかもしれない(僕は「これも社会学だ」と思っているけれど)。
この辺りの偏りをどう処理するか。ギデンズはこれに対して「近代の再帰性」という概念を用いて説明している。再帰性とはつまり、僕たちの社会に、人々が自分たちの社会をどういうものだとイメージしているかによって、政策や社会の営みの方向性が変わるという性質が備わっているという考え方だ。こうした性質は、たとえば貧困やドメスティック・バイオレンスについての実態を調査し、その結果を公表することで、世論が貧困やDVの対策に向けて動き出すといった形で僕たちの前に現れる。言い換えると、何を明らかにするかによって、人々が社会に対して抱くイメージや期待が変化する以上、「ただ調査したことを発表するだけ」という姿勢はあり得ないということだ。
だから社会学は、他の科学と比べてもとりわけ「自意識過剰」でなければいけない。古市くんとの対談本では、それを「パブリック社会学」として紹介しているのだけど、自分の研究が社会にどのようなインパクトを与えるか、当事者・非当事者の人にどのような印象を持たれるか、学術書を出版するだけでなく、講演会を開いたり、マスコミに出演したりするべきかといったことをいちいち意識しながら、研究成果の公表や意見の表明を行うことが求められる。
ただ、多くの社会学者はこうした自意識は過小だろうと思う。大半の人は普通の研究者だったり大学教員だったりするので、何を言ってもそんなにインパクトを与えないというのもある。こういう時代だから、僕も含めてインターネットで機動的に情報発信をすることに消極的なタイプも多くなっているのではないか。
社会的に見ると、社会学者というのはとても自意識過剰で「自分にはこう見える」「自分はこう評価する」といった態度を社会に向けて公表することにためらいのない人ばかりなのかもしれない。実際、僕が社会学を志したのもそういう人たちの影響だ。でもそういう人ばかりが目立つのは、言ってみれば社会学が全体として「自意識過小」だからかもしれない。冒頭で紹介した日本社会学会のウェブサイトもそうだし、このエントリもそうだけれど、「社会学とは」という社会(内輪の業界も含む)への投げ返しをたくさんしておくことが、結果的に「社会の中の社会学」を定着させることにつながるのじゃないか。