「負け戦」に立ち向かう

雑記
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政府への不信が直接の原因ではない

3度めになる緊急事態宣言が出されて1週間。大型連休と重なることもあって宣言のアナウンスメント効果も期待されたが、現実には感染防止どころか、むしろ拡大する傾向にある。人々の行動抑制に対する効果のタイムラグを考えても、今回の「宣言」とそれに伴う措置が成果を挙げられていないのは明らかだ。

どうしてこうなってしまったのだろう。ネット上では、行動制限を促す一方でオリンピック開催に向けて突き進む政府の方針の一貫性のなさに呆れ、「もう従うだけバカバカしい」という声も散見されるようだ。だが、「政府の方針」と「行動を抑制する人が増えない」ことの間に、直接的な因果関係を見るのは難しい。本来、このふたつは独立の出来事であり、「政府は危険だと言っているが、コロナなんてただの風邪なのであり、感染防止なんてしなくてもいい」と考えない限り、両者が論理的に結びつくものではない。

東京都の調査によると、若者の多くは「マスクをしているから外出しても大丈夫」だと考えているという。これはある面では「感染のリスクを過小に見積もっている」とも言えるが、裏から言えば「多少なりとも感染のリスクはあると思っている」ことの現れだ。つまり、「政府の言っている危険なんて嘘だと考えて行動を抑制していない」のではない。

すなわち「従うだけバカバカしい」けれど、いやだからこそ「自分の考える必要な対策」をした上で「自分の判断で許されると思う行動をとる」人々が増えたことが、今回の宣言の効果を限定的なものにしていると考えられる。だから、感染拡大を抑止するという目標に資するだけの規模で人々の行動が抑制されるようにしなければ、「緊急事態宣言」はおろか、今後の政府の施策すべてが効果を発揮しないことになる。

今回のエントリでは、そのための策として、政府が個人向けに積極的な財政出動をすることと、その背景や理由について説明する。といってもこのエントリで論じるのは経済政策的な効果というより、それが必要だと考える社会的、文化的な背景なので、その点はお断りしておく。

「どうせ負けるに決まってる」

この1年の政府の対応に、1945年の敗戦に向かった顛末を見る向きは多い。『失敗の本質』などが分析する、大局的な戦略の欠如、兵站・資源の軽視などは典型的なものだ。あるいは、繰り返される空疎なスローガンが、いつの間にか理想像から現実を示すものへとすり替わり、スローガンを否定することが現実を否定することになるとばかりにそれに固執する様も、確かに「戦意昂揚」を目指した戦中のプロパガンダを思い起こさせる。

ただ、僕としてはそれとは別の視点、いわゆる「世論」に近い部分で感じるところがある。どうも日本社会には、「勝ち負け」をめぐる、典型的なパターンがあるのではないかと思うのだ。それは、「勝っているときにはその原因や背景を分析することなく、その勢いが永続すると考える」のだが、「ひとたび負け始めると、その現実から目を背け、待っていればいつか事態が好転するのではないかという願望にしがみつき、損切りのための対策を講じられない」というものだ。こうした傾向は、戦争に限らずとも、たとえば平成の不良債権処理の顛末を読んでいても感じるところだ。

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少し乱暴にまとめてしまえば、この背後には、日本独特の自然観があるように思う。自然は人為と技術によって克服されるべきものだと考えるのが西欧文明であるとすれば、日本においては自然は、思い通りにならないものであった。それゆえ人々は、状況の変化に合わせてそれぞれが身の処し方を決めるほかなく、全体的な状況を変えるために動くよりは、「自分だけでも生き残るために苦境をやり過ごす」方が合理的だと考えるのである。

半藤一利の『昭和史』を読むに、大戦末期にも、多くの人々は内心、戦争に負けることは分かっていたらしい。政府の中枢も同じだった。けれど誰ひとりとして、敗戦の決断をできなかったのである。誰もが「どうせ負ける」と思いつつも、「早く負けたって決めてくれないかな」と思うだけにとどまるというのは、今般のオリンピックに関しても見られることかもしれない。

敗色が濃厚になり、負けの流れが確定すると、人々は「はいはい負けた負けた」と開き直り、それまでの理想をかなぐり捨てて生き延びようとする。そんな変わり身の早さに民衆の生き様の本質を見たのは坂口安吾だった。いまはもしかすると、戦争末期の空襲で被害が拡大しているにも関わらず、同時に闇市に人が殺到している状況なのかもしれない。

相互監視はもう効かない

あるいは、こうも言えるだろう。行動経済学におけるプロスペクト理論を応用するなら、人は長期的で大きさの不確定な損失よりも、短期的で具体的な損失を回避しようとする。それゆえ、「コロナに感染し、発症したときのリスク」よりも「今日の楽しみを失うこと」のほうを、大きく見積もるのだと。まして、どうせ負ける、つまり社会全体での大きな損失がほぼ確定しているのだから、自分だけがさらに損をする必要はないはずだ、と。

こうした自棄糞とも言える心情が広くいき渡り、感染抑止ができないほどの規模で「バカバカしくて従っていられない」という人が出てきた結果、いまの感染拡大がもたらされている可能性はある。もちろん、人々の行動はさほど変わっておらず、変異種の流入や、企業にテレワークをするだけの余力がなくなったことが大きな要因なのかもしれない。けれど、「感染防止のためにさらに努力しましょう」という掛け声が虚しくなるほど、人々の感情が冷めきっているのは確かだろう。

ここからどうやって事態を打開するか。ふたつの方向性がある。ひとつは、政府が積極的な財政出動を行い、同時に強力なロックダウンを行うこと。もうひとつは、できる限り財政を用いず、市民の間での相互監視と抑圧によって、人々の行動を抑制すること。現在とられているのは後者のものだが、これはもう実効性がないと考えるべきだろう。

市民間での相互監視と抑制というのは、前提として「コロナの拡大は遊び歩いている連中のせいだ」という善悪二元論から成り立っている。「悪い奴ら」が原因なのだから、みんなでそいつらを糾弾して、また自分も糾弾されないように行動を抑制すれば、結果的に財政なしで行動抑制が実現するというわけだ。

こうした対策は、2020年の前半には功を奏したように見える。ライブハウス、パチンコ、ホストクラブ、カラオケといった悪役が次々と登場し、槍玉に挙げられていった。しかしながら2020年の後半にGoToキャンペーンがあり、それまでの抑圧からの反動で消費が拡大。さらに現在では、クラスターの中身がわかりやすい悪役ではなく、介護施設、そして直近では部活動や会社内での感染事例に変化している。

必要欠くべからざる(とそれぞれが考える)活動が抑制される一方で、オリンピックに関連する活動では制限が緩和される。この矛盾を前にして監視と糾弾の目が向けられるのはもはや市民の間ではなく、政治家と官僚の方になっている。「お願い」ベースの施策が効くのは、「コロナは不要不急の遊びによって拡大する(だからほとんどの人は我慢できる)」という状況下においてのみであり、誰もが「あれがいいなら私のこれだっていいに決まっている」と自己判断を始めれば、もはやなんの効果もあげられないことになる。

行動を抑制する人の割合を増やす

翻って、感染拡大抑止のためのもっとも効果的な策はなんだったか。それは「人の接触を8割減らす」ということだった。重要なのは、残りの2割が善人であるか悪人であるかはどうでもいいということだ。言うことを聞かない飲み歩きたい人が残りの2割の大半を占めていたとしても、結果的に人流が減ればそれでいいのだ。

逆に現在のように「オリンピックがいいなら部活動だって」「外食ができないと家で食事をとれない人もいる」といった形で「必要至急」の範囲が拡大している状況では、多くの人が接触を減らそうとしないだろう。なぜならその全員が、「自分の活動は2割のほうに含まれるもの」と考えるからだ。

「曖昧で長期的な損失」よりも「具体的で短期的な損失」を回避することを選択する人々の行動を抑制するためにはどうすればいいか。シンプルに考えれば、短期的な損失を回避することよりも大きい短期的な利得を提供するしかない。その「短期的な損失」の中には、今夜飲みに行きたいといったものも、会社に行かなければ仕事を失うといったものもある。こうした幅の広い損失をカバーしようとすれば、2020年の定額給付金と同じ、個人向けの直接給付がもっとも適当だろう。

所得制限を設けるべきだという声もありうるが、この給付の目的は「人の接触を8割減らす」ことが目的であって「仕事を失いそうな人の所得補償」ではない。飲食店への休業協力金が、「損失補填」ではなく、「感染拡大防止への協力金」であるのと理屈は同じだ。つまりはステイホームのためのインセンティブということになる。

逆にやってはいけないのが、こうしたインセンティブを提供せずに、私権を制限する法律を制定して人々の行動を抑制しようとすることだ。というのも、こうした制限は「どうしても言うことを聞かない少数の人がクラスターを形成している」ときにしか有効に働かないからだ。現在のように、多くの人が「あいつがいいなら自分だって」となっている状況で私権制限を行っても、それこそ闇市よろしく、「自分だけは許される」という人が、公園で、路上で、BBQサイトで、レンタルスペースで、勝手に会食するだけだ。

僕たちが既に負けてしまったのか、まだやり直せるのか、どの段階にいるのかわからない。ただ戦争と違うことがひとつある。戦争は負けを認めれば、とりあえず新たな死者は出なくなるけど、コロナに負けを認めるとさらに死者が増えるのである。それでもいいのだ、という意見が社会の多数ではないのだから、せめていまできることは実行すべきではないか。

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