「外野の野次」との付き合い方

雑記

自分自身もそうなのだけど、周囲からも、ネットやSNSを見なくなったという声を聞くことが増えた。もともとROM専(見るだけで発言はしない人)の割合が諸外国と比較して高いのが日本のネット文化の特徴だけど、「見るに値する情報」がめっきり減ってしまったということの現れなのかもしれない。

実際、世の中はどこでもささくれ立っているから、流れてくる話題も、日々の感染者、それを受けての政治に対する文句、誰かと誰かの仲違い、炎上した芸能人、美容広告、事件、事故と、喜怒哀楽の中でも感情に偏りの激しいものばかりだ。こういうとき、何か言ってやりたくなるような話題こそ気をつけろ、と大学のときに授業で聞かされていなかったら、あるいはコメンテーターとして「何か一言」を求められるような立場にいなかったら、おしゃべりの好きな僕はいろんなことに首を突っ込んで燃えていたかもしれない。

そもそも、なんだってこんなに疲れることをしているんだろうと思う。暇なのかなってよく言うけど、発言している人や話題になる人の属性と、その人が暇であるかどうかの間に関係は見られないようだ。まして世の中の人が何を話題にしているかを知りたくてネットにアクセスする行為そのものは、Twitterでレスバに興じるよりはずっとハードルが低い。

見るに堪えないな、と強く感じたのは、2020年の春、多くの大学教員が突然のオンライン対応に右往左往していたときのことだ。僕自身は既に環境を整えていたし、技術的な困りごとを自分で解決できるスキルもあったので、そこまで混乱はしなかった。古き良きインターネット文化への共感も強いので、SNSの情報交換コミュニティで「こういう問題は、こう解消できるのではないか」という情報提供を行っていた。

面白いことに、返ってくるレスポンスの中には「この状況でそのような解決策を提案するとは、教育者としていかがなものか」というものが目立った。え、いまその話するところでしたっけ?と戸惑ったのだけど、大学のオンライン会議に出ても「だいがくとーきょく」や「もんかしょー」の対応に強く批判の声を上げるべきだという主張を振りまく人もいた。似たような調子でSNSの自分のアカウントでも、「ぼくのかんがえたさいきょうのたいさく」を唱えている人がたくさんいた。

いつの間にか、話の主題は「どのようなことができるか」から「どのようにあるべきか」へとすり替わっていた。興味深いことに、その「べき論」を唱える人は、たとえば大学教員であれば教育の当事者であるわけだから「ゆえに私はこうする」という話をしてもいいはずなのだけど、そういう人はまったく見なかった。みな、「こうあるべきなのに、○○(文科省でもマスコミでも大学理事会でも構わない)のせいで間違った方向に進んでいる」というだけだった。

以来、僕は色んなところで「役に立たない外野の野次」と「傾聴すべき意見」を区別して聞くことにした。僕は批判的な視点を重視する人文系の学問を研究しているから「人とは違う、常識を疑う見方」は嫌いじゃないけど、同時に実務の世界とも関わってきた経験から「その話は置いておいていまできることをする」というプラグマティズムも大事にしている。

そういう立場で「ネット世論」(のごく一部の目立つところ)を眺めてみると、そのほぼすべては「外野の野次」と呼んでいいことに気づく。つまり、当該の問題に対して決裁権や影響力を持たず、また実際に当事者に働きかけるわけでもなく、文字通り「盛り上がっている」だけのメッセージ。それらは「コミュニケーションがコミュニケーションに接続される」機能しか持たないコンサマトリーな情報であり、短期的なフローの一部でしかない。

エコーチェンバー、なんてよく言う。この言葉を広めた一人であるキャス・サンスティーンの定義に従うならそれは、ネットのフィルタリング機能によって自分と同じ意見の人の声しか耳に入らなくなる状況を指す。その先にあるのは、極端に偏った意見が世論のすべてだと感じてしまうことで生じる「分極化」だというわけだ。

だが、「外野の野次」に関して言う限り、そうした「エコーチェンバーがもたらす分極化」とはちょっと違うところもありそうな気がする。野次の中には確かに極端で、現実世界で発言したら立場を失うようなレベルのものもあるけれど、その多くは非常識とは真逆の、むしろ「正論」と呼ぶべきものだ。

なぜ正論であるはずの意見が野次にしかならないのか。それは、現実に存在する文脈を欠いたところにしか成り立たないのが正論だからだ。感染対策と学生の安全を確保することが最優先で、対面授業なんてもってのほかだ、という意見は「正論」だ。では、オンラインで学生の学びの質を確保したり、そのためのネット回線のバックボーンを増強したり、保証人からのクレームに対応したり、そのための事務職員の勤務体制を構築したり、それらもろもろの予算計画を立てたりするのは、どこの誰がやるのか。多くの「正論でない現実論」は、こうした限界と正論の間の様々な調整の結果できあがる。それらを無視しない限り、純粋な正論など主張しようもない。

現実を見ろと言いたいのではない。正論は大事だ。怖いのは、ネット上の「意見」は、どうしても個々の人々の文脈が漂白されるから、まるで正論が正論単体で成り立ってしまうように見えることだ。そして文脈から遊離した正論は、異なるタイプの正論と妥協するための文脈を共有できない以上、どこまでも非妥協的な、「自分の言うことだけが最良の正解だ」という主張を拡散していくことになる。その正論の周りには、賛同者と批判者しか集まらなくなる。

僕の感想だけど、いまネット(のごくごく一部)で生じている、主として言葉のやり取りによる揉め事だったり喧嘩だったりするものには、この「正反対の正論が妥協点なくぶつかりあうことで、話の通じない人どうししか発言しない」状態に陥ってるものが少なくないんじゃないか。そこで見えなくなってしまっているのは、個々の発言者のもつ文脈や現実であり、まさにそうしたことさえ了解できれば話を聞いてくれるはずの「その他大勢の無関心層」じゃないだろうか。

自戒を込めて言うなら、正論に正論で対抗しちゃだめだと思う。正論の中には、現実に妥協しないことで成り立つ高潔なものもあるけど、ネットでよく見る正論のパターンとして「前提となる情報が部分的に誤っている」ものも多い。考えてみれば、たとえば大学教員のすべてが守銭奴であり授業の手を抜くことしか考えていないとか、特定の政党の政治家の全員が汚職に手を染める悪人であるということはないわけで、すべては「そういうこともあるかもしれないけど、違う人もいるよね」という話でしかない。

そのときに、前提条件を極端に狭めて考える人を説得するために言葉を尽くすより、「世の中をそこまで極端に捉えていない人」を対象に、その人たちに一定程度の納得を得られるような意見を表明すること。「そりゃそうだよね」というレベルの了解を目指すこと。コミュニケーションの戦略というものがあるとすれば、それが正論と現実の妥協点になりそうな気がする。

コミュニケーションにはコストがかかる。でも、コミュニケーションがなければ民主社会は成立しないし、機械的な監視と管理のほうが社会を効率的に運営できそうに見えてしまう(実際には、そんなにコストは安くないと思うけど)。部分を見て全体を投げ出さないこと、話が通じる人は見えているよりずっとたくさんいると思うこと。そういう姿勢で「外野の野次」と付き合っていくことが、このぎすぎすした世の中でやっていく術かなと思う。

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