「プーチンの戦争」のユニークさ

雑記

2022年2月に発生したロシアによるウクライナへの軍事侵攻は、国際関係論、あるいはグローバリゼーション論の観点から、非常に多くのユニークな要素を持っている。現在までのところ情勢は不安定であるだけでなく、侵攻したことそのものだけでなく、様々な点で専門家の予想を裏切る事態が起きていて、起きていることを意味づけたり、今後を予測したりするのは容易ではない。しかしながら、そうした「予想外」も含めて、現段階で言えること、考えられることを残しておいて、状況の変化を見極めることも重要だろう。というわけでこのエントリでは、ここまでの流れで見えてきている、今回の出来事のユニークな点を挙げておきたい。

(1)はじまりも終わりも不合理な戦争

まず国際関係論の専門家を困惑させ続けているのは、今回の軍事侵攻がどう見ても不合理である点だ。ロシアの思惑は、どうやら電撃作戦によってキーウ(キエフ)を陥落させ、ウクライナに傀儡政権を樹立し、NATOとの緩衝地帯を構築することにあったようだ。一方で『ニューズウィーク日本版』の記事などによると、プーチンは「ユーラシア主義」と呼ばれる独特の世界観に基づいているのだという。同記事によると

ロシアの魂はユーラシア大陸の大草原とフン族やモンゴル族の武勇に由来するという思想であり、個人を国家の大義に従属させる点に特徴がある。ピョートル大帝の啓蒙主義や欧米の個人主義、さらには共産主義をも否定し、それらがロシアを破滅させたという立場

がユーラシア主義である。つまり近代の個人主義に基づく国民国家ではなく、歴史や民族を基盤とする国家が先にある。さらには周辺国を「半国家」として扱い、自国に従属すべきものだと考えているともされている。

問題は、この思想がユニークであることではなく、戦争の主体として合理的な判断を期待できない可能性があるということだ。近代国民国家が戦争する理由は、まずもって国益の保護・確保である。現代の国際関係論は、そうした自国の国益を優先する独立した個々の主体が、より上位の権威を想定せずに対等な資格で駆け引きをするという「現実主義」と呼ばれる立場を標準的な学説としている。

ところが今回の戦争は、そもそも宣戦布告にもとづく国際法上の戦争ではなく、ロシアの主張によれば自国の防衛のためであるにも関わらず、隣国の首都を攻撃するという合理性を欠いた理屈によって進められている。のみならず、西側諸国による驚異的な速度で構築された経済封鎖網によるダメージすらも顧みず、引き続き軍事作戦を継続しようとしている。専門家の多くが「なぜ戦争を始めたのか分からない」と首をかしげるのはこの点だ。

今回の軍事侵攻が後世で、1970年代のアフガニスタンのように「ウクライナ侵攻」と呼ばれるのか、アメリカがイラクに対して仕掛けたように「ウクライナ戦争」と呼ばれるのか、あるいは国家でなく独裁者の個人的な意思で行われたという意味で「プーチンの戦争」と呼ばれるのかは定かではない。ただ現時点における最大の問題は、国益という合理性に基づいているように見えない軍事侵攻では、それを終わらせる条件も合理的に決められないということだ。

(2)暴力に対抗する情報戦の威力

次にユニークなのは、とりわけウクライナによる「情報戦」が、かなりの効果を発揮しているということだ。一方的に軍事侵攻されたウクライナ国内では軍事的な攻防も行われているものの、僕たちの目に入ってくるのはむしろ、民間施設・民間人への攻撃であり、それをシェアするソーシャルメディアの投稿である。こうした投稿は外国にいる僕たちに「理不尽に蹂躙される無辜のウクライナの人々」という印象を与えるものになる。むろんそのことを疑う余地はないのだが、そうした投稿が結果として西側諸国によるロシアへの反発、そして迅速な経済封鎖をもたらしたのだとすれば、今回の戦争では「情報こそが最大の武器」だとも言える。

ただし戦争とプロパガンダの関係は、いまに始まったことではない。メディア研究や社会心理学の研究は、マスメディアが発達した第二次世界大戦前後から、情報が戦争の見方を形成し、戦争を後押ししたり戦争に反対したりする世論と、実際の戦争の間に関係があることを指摘してきた。また国際世論を形成することで、紛争の当事者の間に「善悪」の境界線を引き、一方に対する肩入れを促すという面では、ユーゴスラビア紛争において「民族浄化(エスクニック・クレンジング)」という言葉が大きな効果を発揮したことも忘れてはならない。

Bitly

一方、ロシア国内ではソーシャルメディアを含めたメディアの情報統制が進んでいるという。インターネットの特徴は、国家権力が規制できない、自由でオープンな情報流通網であることだというのが初期のネット論では強調されていたが、インターネットも物理的なインフラの上に構築された情報網である以上、まったく規制されないわけではなく、むしろ規制される側に気づかれない、意識されない形で制御することが可能な部分が多いことが、次第に明らかになってきた。この経緯を踏まえるなら、ロシアが行っていることは「情報戦に対抗する」という意味で、またひとつの情報戦でもある。

そもそも、世論と戦争の間に深い関係があるのは、現代の政体の多くが民主主義であるからだ。政治家は民主的な選挙で選ばれる以上、市民の不利益になったり、反発を買ったりすることを避けなければならない。だから民主政体においては、情報戦は「いかにしてオープンに流される情報によって政策への支持を得るか」が重要になる(トランプですらそうだった)。逆に権威主義や独裁といった政体では、為政者は自身の基盤を固めるために、厳しく情報を統制する必要がある。インターネット、ソーシャルメディアというオープンな情報インフラが発達したことで、民主主義と権威主義の間の情報への向き合い方が対照的なものになったことが顕になった。それが2つ目のユニークな点だ。

(3)ナショナリズム・民族主義・民主主義

3点目は、とりわけ理解が難しいものだ。現在、西側諸国の多くは、ロシアによる一方的な武力での現状変更を強く非難し、経済封鎖を行っている。その速度は異例のものであり、欧米諸国の反応の強さをうかがわせている。

背景にあるのは、近年の企業に求められる、利益追求よりも社会的意義を追求する姿勢だろう。サステナビリティやガバナンスなどで倫理的な経営を行わなければ投資すら集められないという環境の変化は、この数年で日本にも広がりつつあるけれど、欧米企業においては既に定着した流れだ。この段階でロシアを利するような経済活動を行うことは、こうした投資家、あるいは消費者からの強い反発を招くので、一気に経済活動の脱ロシア化が進んだのである。

そのこと自体は、大きな流れとして今後も続くだろう。ここで注意する必要があるのは、戦争に「善悪」を持ち込むことの是非だ。政治学では、国民国家という概念が成立するきっかけとなった出来事を、1648年のウェストファリア条約に置く。このとき合意されたことのうち重要なのは、戦争は対等な国家同士の外交的行為であり、たとえば宗教戦争のように「どちらが正義か」という観点を持ち込むと、終わりのない殲滅戦になるのでやめようということだ。これを「正戦論の否定」という。

近年の国際紛争には、アメリカの対テロ戦争を含め、「正義」や「人道上の懸念」「人権侵害」といった形で、一方と他方の当事者を「善悪」に区分するものが目立つ。というのも上に述べたように民主主義国家においては戦争の大義は世論が支持するかどうかで決まるのであり、資本主義が発達した世界においては、経済的な関係を維持することの方が戦争よりもコスパがいいので、正義のような理念的な大義以外に戦争が支持される理由がないからだ。

裏から言えば、戦争に「善悪」や「正義」を持ち込むことは、第二次世界大戦後の世界秩序の基本線だった「民主主義国家を増やし、経済的な連携を強めることが、戦争を回避する最良の手段である」というコンセプトに大きな影を落とすことになる。一方的な武力行使が非難されるのは国際法上、当然であるとしても、だからこちらも暴力で対抗しなければならないと考えることが最良であるかどうかは分からない。

現時点でウクライナは、ロシアに対する強い抵抗を続けている。日本の有識者の中には、政治家であれば国民の安全を優先して、早期の降伏や海外への退避・逃亡・避難も考えるべきではないかという人もいる。ただ、ロシアが不合理な歴史観、世界観でウクライナに侵攻していることの反面で、東ヨーロッパから南ヨーロッパにかけてのスラブ民族の多い地域では、ソ連崩壊後、民族主義やナショナリズムが非常に高まっていることにも注意しなければならない。ロシアがウクライナにこだわる理由があるように、ウクライナにも命を賭して自国を守るために徹底抗戦する理由がある。

西側諸国がロシアに対抗する必要があるのは、権威主義による戦争を容認すれば、資本主義と民主主義によって国際平和がもたらされるというコンセプトが動揺するからだ、というのが僕の考えだ。言い換えると、「ウクライナがかわいそう」ということで善悪の観点から一方の民族主義・ナショナリズムを否定し、他方の民族主義・ナショナリズムを肯定することが、必ずしも平和につながるとは限らない。この「国家と資本主義と平和」の複雑な関係を単純化することなく、状況を冷静に受け止める必要があるだろう。

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