意見を持つということ

雑記
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社会調査や世論調査をめぐる、ひとつの興味深い議論がある。

それは、「誰も聞く相手のいない状態で表明された意見を、どう考えるか」というものだ。

僕たちはたいてい、何かの意見を表明するときに、どんな相手が聞いているのかを意識する。不特定多数に聞かれる場面では、できるだけ主張をマイルドにしたり、批判されそうな意見を言わないようにしたりする。逆に、自分と同じような立場、同じような意見をもつ人ばかりだと思える場面では、他の場面より強くそのことを主張するかもしれない。つまり、相手が誰であるかによって、僕たちの言うことは変わる。

さらに、その意見は自分と相手との関係や、自分の信念の強さや態度の明確さにも関係する。上司から「最近の新入社員は心が弱いよな」と言われたときに、部下が「ほんとにそうですよね」と同意したとしても、それは相手が上司であり、自分には新入社員についての強い意見がないことの現れかもしれないのだ。

ここで重要なのは、部下にとってこの問題は「どうでもいい」というのが、実際の態度であるということだ。だが、どうでもいいからこそ、部下は意見を求めてくる相手が誰なのか、意見を表明する場がどこなのかということによって、言うことを変える。「あなたはどう思いますか」という質問には、聞いた相手がなにかの答えをもっているという前提があるが、その前提自体に検討の余地があるかもしれないのだ。

「ホンネ」は存在するか

このことは、世論の姿を明らかにしていく上で、とてもやっかいな問題を引き起こす。あるイシューに対して賛成・反対、またはその中間(「やや賛成」など)のものさしを設定して、あなたの意見にもっとも近いものはどれですか、と質問するのが、アンケート調査の通例だ。この質問の仕方には、その人が、賛成から反対の間のものさし(「尺度」という)のどこかに、その人固有の意見をもっていると想定している。ところが現実には、人の意見は容易に、ものさしの間を揺れ動く。

興味深いのは、心理学における「同調効果」の実験だ。ソロモン・アッシュの実験では、「左の赤棒と同じ長さの棒はどれか」を選ばせる質問に対して、一人で回答した際には100%の正答率だったものが、サクラの回答者が違う答えを選んだ際には、その回答に影響されることが明らかになっている。心理学の中では、この同調をもたらすものには「規範的影響」(みんながしているのだから合わせなければ)と「情報的影響」(みんながしているのだから確かなのだろう)があるとされる。だとするなら、自分の態度が明確でない問題ほど、情報的影響による同調の効果が認められるのではないかと考えられる。

たとえば社会学の中でも、「構築主義」と呼ばれる考え方に依拠する人々は、(心理実験の結果に依拠するというよりは、一般的な判断として)「人の意見は、場面や話す相手によって変わるものであり、したがって『その人固有の意見』などというものは存在しない」と考える。その「意見」なるものは、人々が言葉を使って社会についての何ごとかを言い表すときに初めて目に見えるようになるものでしかなく、したがって、「ある社会問題に対する賛成は○%だった」というときにも、それは「そういう見方」があるに過ぎない、そのような数字で表される客観的な社会などというものは存在しないのだ、という立場を採る。

エコーチェンバーがもたらすもの

実際、同調の効果が僕たちに影響するのだとしたら、「賛成が○%」という結果が示されることすら、僕たちの態度を変えてしまう。もともと賛成だった人は「それ見たことか、反対者は少数派であり、したがって彼らの言うことは間違った、極端な意見だったのだ」という態度を強化するだろうし、さほど態度が明確でなかった人も「みんなが賛成しているのであれば、それが正しいのだろう」と判断するようになるかもしれない。

一方で、もともと明確に反対意見をもっている人の中には、自分と異なる意見が多数派であるという事実は、強い認知的不協和を引き起こす。認知的不協和とは、自分の行動(タバコを吸う)と認知(タバコは体に悪い)の間に矛盾が生じている状態のことだが、このとき、人は自分の行動を変えるよりも認知を変えるほうが容易なので、「そうはいってもタバコを吸うと頭がスッキリする」といった形で、自分の認知を変えて行動を正当化しようとするのだという。

よくインターネットのもたらす影響として知られるエコーチェンバー現象も、こうした認知的不協和を解消しようとする結果として生じていると言えそうだ。自分自身の普段の行動と、その行動に対する社会からの評価が矛盾した場合に、その評価のほうが間違っていることを示してくれる情報に触れることで、「自分は間違っていないのだ」という確信を得るというわけだ。

※ただし、インターネットがこうした効果をもつのか、その強さはどの程度なのかといったことについては論争があり、はっきりとした結論が出ているわけではない。もしかすると「ネットの極端な意見はエコーチェンバー現象の結果だ」という見方こそが、社会的に構築され、共有された物語なのかもしれない。

バイアスを取り除くべきか

ここまで、人がある社会問題に対して意見を持つこと、それを調査で明らかにしていくことにまつわる問題を示してきたのだが、僕の関心は、そうした社会調査の技法や科学的手法の洗練ではなく、より倫理的なところにある。

数量的な手法で社会や人間の姿を明らかにしようとする人々は、人間に、ここで述べてきたようないい加減で曖昧なところがあることを認める。そのうえで、それは様々な「バイアスを取り除く」処理によって、ある程度まで乗り越えられるという風に考える。できるだけランダムに抽出された多様な人を対象に調査をすること、被験者を統制群と実験群に分けて実験の効果を測定すること、そうした手法を通じて、個々の持つ偏りを全体として均したときに得られる結果を「バイアスのない」ものにすることが重要だというのだ。

ここでもう一度、最初の問いに立ち戻ろう。「誰も聞く相手のいない状態で表明された意見」は、果たして「バイアスのない、その人自身を表すもの」だと言えるのだろうか?

たとえば選挙においては、投票先はその人だけの考えで決めるべきだ、というのが民主主義の大原則になっている。投票の秘密が守られなければならないのは、「どこに投票したのか」が知られることで、その人が地域の付き合いや職場の関係で不利を被ることがあれば、投票行動にバイアスが生じるからだ。だからこそ、投票行動では「誰も聞く相手のいない状態で表明された意見」こそが、その人自身を表すものだと言える。

しかし例えば、他者との関係の中で生じるできごとについての「その人自身の意見」は、果たしてどこに現れるのだろうか。誰も聞く相手のいない状況では「最近はどんなことを言ってもすぐ炎上する、どいつもこいつも小さな問題で騒ぎすぎだ」と思っている人でも、勤め先で同僚や取引先と接する場合には「それはセクハラに当たります、気をつけてください」と指示するかもしれない。というより、ここまで示してきたように、人間の態度や意見はそのくらい柔軟で、場面によって変わるものだろう。

人の意見は「相手がいる」ことによってバイアスを受ける。だが、バイアスを受けて社会的な規範に同調することや、それをその人の意見として採用するのは、果たして間違っていると言えるのだろうか? 誰も聞く相手のいない状況で発露された本音のほうが、人前で慎重に言葉を選んで発言したことよりも「その人自身を表すもの」だと言っていいのだろうか?

対話は態度を変える

インターネット上での言論はときに、強い言葉の応酬になったり、集団で特定の人への非難が集中する炎上現象が起きたりする。あるいは、「どのようなことを書いているか」ではなく「どのような人物が書いているか」にばかり注目して、そのような人物をこき下ろし、人格を否定することに血道を上げる主張がもてはやされたりもする。

しかしながら社会問題の中には、相手がいて、その相手と向き合うことによって意見の表明の仕方が変わるものもある。それだけでなく、意見の異なる人と対話することで、自分の意見が変わるような問題もある。

「討論型世論調査」と呼ばれる手法がある。社会的に意見の分かれる問題について世論調査を行い、その中から討論に参加する人を募集する。参加者は一堂に会するフォーラムの中で、小グループでの討論を通じて意見交換や熟考を行い、最後に、最初の調査と同じアンケート調査を行って、参加者の意見がどのように変化したのかを見るというものだ。

これを「世論調査」と言っていいかどうかには議論もあるだろう。しかしながら、こうした手法は「誰の意見にも影響されないその人のホンネ」よりも「世の中には異なる見方、感じ方をする人がいることを前提に形成される合意」が重要なイシューにおいて、とりわけ効果を発揮すると考えられる。もともと強い意見をもっている人であっても、異なる立場の人がいる前で、相手を罵倒するのには抵抗があるだろう。「バイアスのないホンネをぶつけ合う」ことよりも「相手がいる前で発露された意見」をすり合わせていく方が、「みんなの意見」をすり合わせる上ではスムーズに進むのではないか。

もちろん、そうしたバイアスを離れて、表明しにくいホンネや、傷つくことを恐れて言えない秘密を明かすことのできるインターネットの良さを、僕は否定しない。特に同調傾向の強い環境では、インターネットくらいでしか「あのときは笑っていたけど、本当は傷ついていました」ということを表明できない場合も多いだろう。そうしたホンネが明かされていくことで、「自分は気に留めなかったけど、自分と違う感じ方をする人もいるかもしれない」と思う人が出てくれば、それもまた他者の前で意見を表明するときのバイアスを生んでいくことになる。

ネット上には、見ているだけで心が苦しくなる罵詈雑言や非難の応酬も多いけれど、そのことによって「気をつけなければなあ」という感覚が生まれることもある。できることなら、腹を立てたり悪口を言ってスッキリしたりするためにではなく、自分ひとりではない状況のときに、他の人に優しくなれるためにネットが利用されたらいいのにな、と思う。

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