「電子書籍元年」とオープン戦略の意味

インターネットが登場した頃、これで紙のメディアは不要になると言われたことがあった。実際、オフィスでの文書のやりとりは徐々に電子化され、いまでは細かな文書はメールで送られることが普通になっている。けれどその一方で、コンピューターやインターネットに関する雑誌や書籍が売れるという出来事も起きたのだった。

昨年あたり騒がれた「電子書籍元年」も、それが既に三度目の「元年」であることがたびたび指摘されたが、電子書籍より、電子書籍やリーダーを特集した紙媒体が売れるという点でも、過去に何度か見た風景の繰り返しだったように思う。もっとも、デジタル化、情報化で世界が変わる、歴史が変わる、働き方が変わる、という話そのものが、1960年代から語られ続けている「狼少年」の類だったりするのだけど。

では何も変わっていないのかというと、もちろんそんなことはない。変わったとか変わってないとかは、変化する枠組の定義次第でなんとでもなる話だ。さしあたって大事なのは、昨年からの「元年」が、何を、どのように変える可能性があるのかということを定義し、検証することだろう。

といっても、切り込むべき角度は無数にある。デバイスとしての電子書籍リーダーのデファクトになるメーカーはどこか、仕様は統一されるのか、出版社や書店の収益構造は変わるのか、取次や印刷会社のビジネスモデルはどうなるのかなど、数え上げればきりがない。

その中でも僕が特に気になっているのは、「電子書籍化」に絡んで様々な新規プレーヤーがこのブームに参入しようとしていることだ。とあるところで見せてもらった資料によると、出版社から読者の間に入る流通過程に、たくさんの業界団体、コンテンツプロバイダー、代理店が何らかの形で関わろうとしており、一目では理解できないほど複雑なアライアンスを結んでいるという。電子化とは本来、流通の中抜きをすることでコストダウンをはかり、消費者の利便性を高めることだと思っていたら大間違い、というわけだ。

これは言い換えれば、電子化は単に寡占を推し進めるのではなく、うまくプレーヤーの交代を促進することで新たなビジネスチャンスを生むものにもなりうるということだ。しかしその点が先行しすぎると、結局は失敗する結果に終わりかねない。

昨年末に購入したシャープのGALAPAGOSだが、経済誌をわざわざ紙で買って読まなくてもよくなった点では満足しているものの、それ以外では不満の方が多い。非常にわかりにくい設計の電子書籍サイト、買わせる気があるとはとうてい思えない概要の表示方法、ソフトウェアアップデートの際に生じたミスなど。しかし一番ひどいなと思ったのは、PCとの連携ソフトを使って読めるようになるとうたわれていたPDFが「ファイルを画像として解釈して表示する」という仕様を採用したことで、まともに読める代物にならなかったことだ。

このことは、たんなる設計ミスというよりは、先に述べたビジネスモデルの問題と絡んでいるのだと思う。つまり、TSUTAYAと連携して大々的にリリースした自社の電子書籍販売サイト経由で購入した商品以外は、基本的に読ませないという方針なのだろう。

これはまさに「ATRAC3の悪夢」を思い起こさせる事態だ。グループ内に音楽出版も抱えるソニーが自前で作った流通網にリスナーを囲い込むために採用した「WakmanではATRAC3がデフォルト」という仕様は、結局リスナーのWalkman離れ、あるいはiPodへの流出を促す結果となった。失敗した理由は簡単だ。人はレーベル単位ではなく、好きなアーティストや曲、アルバム単位で音楽を購入するのであり、またデジタル音楽プレーヤーのターゲットユーザーは、既に大量のデジタル音楽ファイルを所有していたという事実を、完全に無視したからだ。

電子書籍についても似たようなことが言える。出版業界の一部の人が考えているような「紙の手触りこそが書籍の本質」という考え方に同意する人は、確かに「本好き」ではあるかもしれない。しかし「本の消費者」として考えたときには、自分の所有する本を断裁してPDF化してまで大量の本をストックし、読みたいと思う「自炊派」の方がはるかに「本好き」だということになるだろう。

こうした人びとにとっては、既に所有している本を電子化して読めるのと同じくらい、わざわざ断裁してScan Snapに放り込まなくてもいいように、電子書籍販売サイトが充実していくことに対するニーズがある。「音楽好き」が結局購入した、またはTSUTAYAで借りてきたCDをリッピングする手間を省いてiTunes Storeで音楽を購入するように、買いたい本が販売サイトの方にあれば、そちらを購入するようになるのではないか。

実はこの点でも、TSUTAYA GALAPAGOSを含め多くの電子書籍サイトはニーズに応えられていない。点数が少ないのはもちろんなのだが、そもそも並んでいるラインナップに問題がある。そこでは往々にして、ビジネス誌、自己啓発本、旅行ムック、時代小説、ミステリ小説、そしてマンガが主力商品となっている。このラインナップは、新幹線の駅売りキヨスクに並んでいるものとほぼ同じだ。つまり、数時間の移動時間をつぶすための読み捨て前提のコンテンツであり、しかもそうした人達がまさに欲しいと思った瞬間に手に取ることのできる場所にあるリアル書店と競合しているのである。

経済の世界では「フロー」と「ストック」を分けて考えるが、その例に倣えばこれらのコンテンツは「フロー」としての性格が強い。なぜこうしたフローばかりが電子化の対象になるのか。その理由は、出版不況の影響の出方の違いによる。ストックが前提の一般書や人文書の場合、全体として本が売れなくなったとしても、それを挽回しようとすれば「当たる本」を作るしかない。それに対してフローの雑誌や新聞は、単体の号の売り上げよりも、固定読者の増加が見込めなければ意味がない。そのため「読者の間口を広げる」手段である電子流通化に踏み切るインセンティブが強いのだ。

むろん委託販売モデルとかその辺の問題もあって、書籍もだんだんストック的なものよりは新書などフロー性の高いものが主軸になりつつあるのかもしれない。だが電子書籍という点で考えれば、むしろ「宝の山」は、リアル書店に並ばない、つまりリアル書店と競合しない絶版本や少部数の専門書、雑誌のバックナンバーの方にある。ただ、この点については「図書館での電子レンタル」というダークホースとの兼ね合いが気になるところではあるのだけど。

iPodはコンテンツをオープンにする一方でデバイスをクローズにすることで、収益性とオープン戦略の両立を達成した。いまのところ電子書籍の世界では、コンテンツもデバイスもクローズというパターンが目立つように思う。それは「新しい流通」の手段に群がる様々なアライアンスのメンバー全員は納得させるかもしれないが、読者は納得しないし、企画そのものがこければ水の泡だ。いま必要なのは、コンテンツをオープンにすることで、デバイスなしでは生きられない人びとを増やし、最後は彼らにビートルズを売りつけるような戦略であるはずだ。

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