質の頑張り>量の頑張り

毎年春になると、新入生向けに何か書かないと、と思っていたのだけど、そういえば去年は何も書かなかった。10年11年12年と続けて書いてきて、もう特に書くことがなくなったからなんだけど。

で、今年の入学式。震災の緊張感が抜けたのか、景気回復の影響か、全体的に例年より落ち着きがない。悪意があるわけじゃなくて、いま自分がその場でどういう態度を求められているのかを理解できないという意味で、単に子どもなのだろうと思う。

そういう子たちにはもちろんそれなりの対処の仕方があるのだけど、どちらかというと気になるのは、そういう雰囲気の中で、「自分だけは違う」と思っちゃってる君みたいな人のことだ。自分はあんなチャラい奴らとは違う、まじめに勉強するために進学したんだ、と。素晴らしい姿勢だし、僕らとしてもその意欲には全力で応えたい。でも、実はそういう態度って割と危なっかしいところもある。

「量の頑張り」は見えやすい

以前と比べても、大学生活が忙しくなっていることは間違いない。まず、とれる授業の数が増えた。所属学部の提供する科目だけでなく、全学開講科目だの語学のアドバンスト科目だのキャリア関係の科目だのがある。昔より仕送りなんかも減っていて、バイトしないとやっていけないのに活動する領域が広がってるから出て行くところも多い。

一方で、それだけ忙しいと、忙しいということに満足してしまう。これは社会人だって同じなんだけど、予定の数だとか単位数だとか、自分が成し遂げたことの「量」が自分の価値であるように思えてくる。最近ではソーシャルメディア上でも、そうした「量」の自慢をたくさん目にする。自分たちが主催したイベントで100人以上が集まっての記念写真。かけもちしているバイトのシフト。資格試験への挑戦やエクステンションプログラムへの取り組み。地域活動。エトセトラ。

そうしたアクティビティは自慢に値するものだと思うし、自分にはできないと思う。すごい。でも、そうした「量」の頑張りは、言ってみればモノサシがひとつしかない。そして共通のモノサシで測る限り、絶対に上には上がいる。言い換えれば「この地域では一番」だとか「この大学では一番」だとか、勝負するフィールドをわざわざ狭くしない限り、その「量の頑張り」は、世の中的な価値を持たない。

100人の仲間とひとつのイベントを作り上げて涙を流すいい経験をしました!ふーん。すごいね。でも同い年のアイドルは自分のパフォーマンスで数千人を動員するけど?みたいな話は、要するにどんだけ盛ろうと「量の頑張り」が「凡人プラスアルファ」程度のものでしかないという現実を突きつける。勉強にしても同じだ。あれもこれも頑張ってたくさん単位を修得していくつも資格を取りました。うん、すごい。でもそれって勉強さえすれば誰でもできる、年間何千人も合格している資格の話で、ところで君が頑張ったっていう大学、偏差値で言うとどのくらいだっけ?みたいな。

「質の頑張り」を手に入れるために

繰り返しになるけど、決して馬鹿にしているわけではない。すごいと思うけど、上には上がいる「量の頑張り」にどれだけ胸を張っても、そこには限界があるという話だ。なのに人は量で頑張っているとき、すごい充実感や満足感を得てしまうところがあって、それは君が軽蔑しているチャラい連中に比べて本当に意味のあることなのかってことだ。

「量の頑張り」とは、誰でも同じように測れる共通のモノサシの上の方を目指すってことだ。だけどむしろ目指さないといけないのは、自分にしかないモノサシの上の方で、要するに「質の頑張り」じゃないだろうか。イベントだろうと勉強だろうと地域活動だろうと、量ではなくて質の側面がある。その部分に価値を見いだせているかどうか。

といっても、質ってなによ、と思うかもしれない。実際、何が「質」の高いアクティビティなのかということは、そう簡単にはわからない。ひとつ言えるのは、質が高いかどうかは、その活動が埋め込まれている環境によって変化するので、自分が身を置いている環境をある程度正確に把握できていないと、とんちんかんなものになってしまうということだ。

例えば英語の勉強。TOEICの点数なんかは典型的な「量」のモノサシだろう。でもそのモノサシの上の方にいることは、果たして何を意味するのか。多くの学生にとってそれは、英語の苦手なその他多くの学生よりも勉強ができるということを示すモノサシでしかなくて、例えば15億人くらいいると言われる英語話者の市場で競争するためのモノサシだとは思っていないだろう。

でも例えば将来、IT業界で働くためにアメリカの最新のソーシャルメディア事情に詳しくなりたかったら?仕事に必要かどうか分からない分野の単語まで幅広くカバーしてTOEIC対策をするよりも、毎日英語のウェブサイトを読んで情報収集していた方が質の高い学習になるかもしれない。

専門科目でも同じだ。最近は社会科学に近い分野でも、「ビッグデータ」や「行動観察」など、統計学や心理学の延長線上に位置づけられるアプローチがビジネス手法として注目されている。物理学のモデルが金融工学(より広くは経済物理学)に応用されていった流れなんかもそうだろう。つまり、目の前に並べられた科目という材料がどんな料理を作るのに役立つかは環境や時代によって変わるし、そこでの学びがどういう意味を持つかも、あらかじめ決まっているわけではない。

だからこそ「勉強を頑張る」でも「社会活動を頑張る」でもいいのだけれど、単に量で測られるモノサシの上の方を目指すのではなく、自分なりに学びをデザインし、何が質の高い学習/活動に当たるのかをイメージしながら(ときに軌道修正もしながら)動いてみる、というのはどうだろう。

補足と宣伝

大人の人からは「若いうちなんて何も考えずにがむしゃらに動いておけばいいんだよ」という人もいるかもしれない。僕は質の高い行動ができない分、量でカバーしようと頑張ってきた(けど結果が出なかった)タイプの人間なので、言いたいことはよく分かる。ただそれはミクロな解としてはあり得ても、若い世代が減っていくマクロな状況を考えると歩留まりの悪すぎる策だし、量で頑張るためのフィールドが増えちゃっているという事情もある。努力に効率を求めても詮無いところは確かにあるけど、しなくていい方向に努力した挙句無駄玉の多い人生でした、では勿体ない。

特に勤め先の場合、社会学という学問の特性やスタッフの多様さのおかげもあって、用意されている材料は多いのに体系だてられた学習につながらず、結果として量の頑張りしか手元に残らない(もしくは量ですら頑張れない)という例が目につく。そういったわけでここ数年、学部の中ではいくつかの取り組みが走っている。

そのうちのひとつが、僕がデザインと制度設計に関わらせてもらい、この春からオープンすることになった「共同学習室」と、そこでのピア・エデュケーションの取り組みだ。こちらについては記念シンポジウムも予定されている。
lerningspace
またそれに関連して、同スペースで利用できる「キーワード集」も開発した。これはすべての専門科目にキーワードでタグ付けを行い、それらをリンクの形で横断しながら履修モデルを主体的に構築するためのアプリケーションで、「空き時間で一番面白そうな(楽な)講義を取る」といった従来の履修スタイルの改善のために導入されるものだ。こちらについても近日中に情報を出せると思うので、そちらも参考にしてもらえれば。

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