「炎上」と「クソリプ」のあいだ

雑記

一度火がつくと止まらないケース

アパレル業界においては、だんだんと暖かくなってくる今頃は年間でもかなり重要な時期なのだと思う。社会人になれば可処分所得も増え、生活も変わるから、そういう人に「これまでとは違う、ひとつ大人の服」を売り出す絶好のチャンスだからだ。もっといえば、これまで潜在顧客だった層を一気に自ブランドの顧客に変えるために「春」「変化」「開花」といった季節のキーワードと顧客自身の成長や変身を重ねあわせてアピールするようなキャンペーンが、様々に展開される時期であるわけだ。

そんな中、ジェンダーに絡むものとしては珍しくワンサイドで炎上したルミネのPR動画。20日朝からウェブ上で燃え始め、夕方には謝罪の掲載と動画の削除というスピード対応だったので、僕らにとっては収束に向かう案件だけど、おそらく制作担当者にとっては胃に穴のあくようなクライシス対応の日々が続くのだと思う。春先のキャンペーンのスタートから大失敗した上、それに対する抗議はクライアントの方にいくわけだから。

ただ速やかな削除、というのは対応としては間違っていないと思う。こうもワンサイドで炎上してしまうと、一部で言われたような「炎上マーケティング」(要するに売名行為)として再利用するのも難しいし、こういうケースでは批判する側に対する抑制が働かなくなるので、どんな風に叩いても正義!と思う人も出てくるからだ。もちろん、僕も今回のPR動画を擁護できるとは微塵も思わないけれど。

ただ今回の件で考えなきゃな、と僕が思ったのは、特に企業社会における女性の地位や扱われ方の問題、CM表現としての問題ではない。昨年あたりからずっと考えている、「本来は別のコンテクストが混在してしまうことによって生じる、ウェブ独特の難しさ」に、どういう形で向き合うべきなのか、ということ、言い換えれば、そもそも「炎上」ってなんなんだろうということだ。

「製作者の意図」はそんなに重要か

ワンサイドで炎上した、と書いたけど、それはどういうことか。特にジェンダーの絡む問題については「女性蔑視だ!」という声が上がると「自分はそうは思わない」「言いがかりだ」「むしろ男性への抑圧だ」といった「批判への批判」が持ち上がることが多い。議論が進めば今回のケースも、場外乱闘のように「いやお前の言うことだって」という話にはなるのだろうけど、少なくとも動画そのものに対しては「えっ別によくない?」という人はいても一緒に燃やされてしまっているように見える。

おそらくその理由は、第一話に登場する男性が、かばいようもないほど明確にハラスメントにあたる言動を行っていること、言い換えれば「こういう風に見れば別に悪くない」という解釈を引き出せないものだったことにある。それに対してどう行動するかという点では意見が分かれるところもあるようだけど、第一話だけ見せられたら、そりゃどうしようもないですね、と。

一方でなんとか擁護のいとぐちを探ろうという向きもあるようで、それはこれまでのルミネのキャンペーンが、おおむね女性の自立や自己決定を後押しするものだったことに共感的な人たちからのものだった。実際、今回の動画も含めたキャンペーンのキービジュアルは、およそ「(男性からの)需要」などという視線とは無縁な、AyaBambi(マドンナとも共演し、レズビアンのカップルであることを公表している)が向かい風の中「壁を打ち壊す」強烈なダンスだ。

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そんなわけで、きっと今回の動画も先々の展開では違ったものになるのではないか、などという話もあった。ただ削除されてしまったことや、そもそもウェブのキャンペーンで続編を見てもらえる人の数はどんどん減っていくことを考えれば、「どんでん返し」を期待するのもどうかなと思う。ルミネ広報からは「女性の変わりたい気持ちを応援」する意図があったという話も出ているけれども、さすがに「伝わらなくて残念」なんてことは言わない。謝罪文のほうも、言い方としてはギリギリだけど、率直に発信側の間違いだったことを認めているように読める。

ただ、こういう騒動の際によく出てくる「発信側の本来の意図」は何かという問いには、実はほとんど意味がない。裁判なんかで争われる「分かっていてやったのかどうか(構成要件的故意)」は、当該主体の責任を明らかにするために問われるのだと思うけど、ハラスメントだとか、今回のように「不快に思う人が出る」というのは、まずは関係性の中で起きる出来事だからだ。セクシャル・ハラスメントやパワー・ハラスメントの場合、どちらも「立場の差(非対称性)」によって被害者が嫌だと言えない、拒否できないために第三者による救済の手立てが必要になるのだけど、その前に「あなたはいいかもしれないけど、私は違う」ということから問題が生じていることを認めなければ、「そんなつもりじゃなかったんだから自分は悪くない、不快に受け取るお前が悪い」という言い逃れが成立してしまう。

コンテクストが混在する複雑さ

この手の話は、大きな組織で、かつ非対称な関係が無数に存在している学校なんかにいるとまま直面するし、日常的に気遣いが必要になるところだ。もちろん僕だって完璧ではないし、反省すべきところは多い。相手に指摘されにくいことだからこそ自己点検と修正が必要なんだとも思っている。でもこの「あなたはそうでも、私は違う」という食い違いに自主的に気づくのはものすごく難しいし、言えないんだと分かっていても「言ってくれないと分からないよ」と思うこともある。

ウェブに限らず、広く世の中に意見や主張、表現を発信するということは、この「私は違う」に直面する可能性に身を晒すということでもある。だから広告は表現でもあり、宣伝でもあると同時に公共的なものでもあると考えられてきた。特にテレビのように一方的にお茶の間というプライベートな空間に入り込む情報には、「別の受け取り方」への配慮が必要とされているはずだ。まあ実際には、55対45くらいの割合で受け取り方が分かれる場合に、どちらにも配慮しましょうねということはあっても、クラスに一人はいるはず、という比率だと無視されることの方が多いと思うけど。

それはテレビというメディアが大衆社会の成立期に普及した「マス」メディアであり、視聴率に代表されるような量的な指標をビジネスの根幹にしてきたことに起因する問題だと思う。だがネットは違う。母集団における比率ではなく、声を上げた人の中での割合が受け取り方の趨勢を左右するし、だからこそ数の上では少数派の意見であっても影響力を持つ可能性がある。「言ってくれないと分からない」が、相手を目の前にしていないがゆえに(そして自分が誰だか特定されないために)、ちゃんと言えるという面があるわけだ。

だがこれは、そういうことを言われたことのない人にとっては、唐突に「不快だ」という人が出てきて、「えっなんで? どうして?」となるということも意味している。というより、マス相手の商売をしてきたテレビ制作者や広告代理店の中でも(現代においては)割と鈍感なほうの人に、こういう反応は顕著だ。彼らも最初は「ネットって変なことにこだわる人がいるんだねえ」くらいに思っていたのだけど、「炎上」という認識枠組ができてからだろうか、「ネットでは何を出しても叩かれる」と溜息をつくようになり、ずいぶん防衛的になっているように思える。

こういう人たちにとっては、「炎上」というのは、自分たちが原因で起きた批判というより「クソリプ」に近いものなのだと思う。クソリプとは要するに、こちらの発信する文脈の意図に沿わないレスポンスのことだ。「そういう話をしてんじゃねえよ!」という。ただそこには、自分の発信にクソリプを呼びこむような文脈の難しさ、たとえば特定の人間関係の中でしか通じないような言い方だとか、ある程度の知識がないと理解できないような用語を使っていたとか、そういうことがあったかもしれないという反省が欠如しているのだけれど。

ソーシャルメディアの普及は、そうしたクソリプにつながるような「文脈の混在」を、個人レベルにおいても無数に生み出したというのが僕の理解だ。一昨年の著書から始まり、昨年もブログで言い続けていたことは、ソーシャルにおける混在を避けるために、生活者の一部にネットとリアルを上手に切り分けながら、リアルの方に足をかけるような消費の兆しが見られるということだった。まして文章と異なり、時間的な前後関係や論理的な接続関係を明示することが難しく印象で受け取られがちな映像メディアの場合、その種の文脈の混在はまま起こりうる。

メディア・リテラシーの不在

こういうことを書くと、制作サイドからは「ネットですぐ燃えるようになって表現が不自由になった」という声が出てくる。確かにそういう面もある。だが公共的に影響を持つ情報発信に対して文句をつけられない社会のほうがはるかに不自由であることは言うまでもないし、それが発信側に責任のある「炎上」なのか、燃やしている側の「クソリプ」なのかも、そう簡単には決められない。一方で発信者が防衛的になり、仔猫の動画くらいしかウェブでは出せない、となるのも味気ない。ではどうすればいいのか。

僕に言わせれば、こうした「コンテクストの混在」への耐性のなさは、僕たちの社会におけるメディア・リテラシーの不在に原因がある。メディア・リテラシーというと、「マスメディアの発信する情報のウソを見抜く力」だと思っている人が多いようだけど、それでは不十分というか、考え方次第ではメディア・リテラシーとは正反対のものになる。

本来のメディア・リテラシーとは、「発信者がどのような意図でどのような文脈を構成しようとしているか」を見抜く力のことだ。マスメディアのウソの話であれば、たとえば「少年による凶悪犯罪が増えている」というウソに対して「実際は増えていない」ということを知る力ではなく、「なぜ増えているというウソをつくのか」「どういうメカニズムでそのウソが発信されたのか」を見抜く力のことを、メディア・リテラシーと呼ぶのである。

少年犯罪であれば、統計上の数字もあるし、それに基づく真偽を検証することもできる。だが本来のメディア・リテラシーが重視しているのは、真偽を決定できない、というより人によって受け取り方の違う問題に対して、メディアの発信がどちら側に立っていて、そうでない側からはどう見えるかを読み解く力のほうだ。痩せすぎのモデルばかり出てくるアパレルブランドの広告だとか、情報機器のCMで高齢者が常に「機械音痴」として描かれるとか、そういうことの背景や影響について考える力が、本来のメディア・リテラシーなのだ。

だからメディア・リテラシーは、マイノリティに対する配慮と非常に親和性が高い。言い換えると、マジョリティ目線ではクソリプにしか見えないようなツッコミに対する耐性と配慮を涵養するのが、メディア・リテラシーだということだ。

共通理念のない社会で

ところで、そのツッコミが、正当な批判(による炎上)なのかクソリプに過ぎないのかは、どこで決まるのだろう? ひとつは数の論理ということになるけど、それだと少数派であればあるほど配慮しなくていいということになる。他方で、まったく特殊で配慮するに値しない、あるいは非公共的で度し難い少数派の見解というものもある(多数派にだってある)。

こういうとき、メディア・リテラシーの理念が誕生し、普及した欧米社会においては「社会の共通理念」が参照される。「多文化共生」だとか「建国の理念」だとか「社会の伝統」だとか。感じ方も考え方も受け取り方も違う。そういう人たちをどういう基準で、どういう風に社会の中に包摂していくかについて、社会全体での了解がある、という基盤がなければ、炎上とクソリプを切り分けることは非常に難しい。

しかるに僕たちの社会において、そうした理念は明瞭にはなっていない。「和を以て貴しと為す」なのかもしれないけど、それは実質的には理念の否定でしかない。もう少し言えば、「俺もある程度は我慢するから、お前も我慢しろ」という「希釈された理念の否定の蔓延」によってこそ、対立が回避されるというメカニズムになっている。だから妥協した人間をさらに批判することははばかられるし、そこでひとつの理念に基づく主張をさらに繰り返すことは、非妥協的で和解の余地のない人間だということで排除の対象となるはずだ。

しかし、相互妥協による和の維持とは、言い換えれば妥協していない部分についてはお互い保持したまま関わらないようにしましょうね、ということだ。おそらくこの考え方は、生き方の価値や信仰など、人間の根底をなすものごとについて異なる人びとと共生する上では、必ずしも悪いものにはならない。だが社会保障や雇用、ライフコースの選択のバイアスなど、社会の中である程度共通のしくみを作らなければいけないことがらに対しては、時代の変化に合わせていく妨げになると考えられる。そしてまさにルミネのPR動画の問題は、そうした共通のしくみの問題として扱うべきことを、あたかも個人の感じ方のレベルで処理可能なものとして表現しようとした、その点にあるのだと僕は思う。

通信、メディア、広告といったセクションの動きの中で、ネットでも動画広告の果たす役割はますます大きくなるし、今回のような炎上案件も、テキスト時代よりは増えるかもしれない。共通理念を参照できない社会で、欧米型の多様性への配慮を促すメディア・リテラシーを期待するのは難しいかもしれないけれど、せめて「しくみ」に関することがらにだけはセンシティブになっておくべきなんじゃないかと、そんなことを考えさせられた事例だった。

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