「体系の学び」をデザインする

雑記

4月になると新年度の始まり、というけど、社会人になると「新年度を始めるための準備」が前年度末に続くので、さてここからスタート、というほどの区切りはない。むしろそういう区切りがあるのは、新入社員だとか新入学生といった人たちだろう。で、このブログでは入学式が執り行われるこの時期に、そんな新入生向けに学びをめぐるエッセイを書いている。さすがにもう一般論的な話は尽きているので、今年は少し勤め先に寄せた話でも。昨年のエントリから辿ってもらえれば一般論的なことは読めると思う。

「頑張り迷子」にならないために

今年は、宣伝がてらいままでとは違う話を。昨今の大学は、今の子たちの親の世代と比べても、学びの幅が大きく広がっていると思う。かつて専門科目と対置された一般教養科目の扱いが小さくなった一方で、キャリア科目や留学など、より大きなカテゴリーで人格を形成するような学びの場が増えた。その結果、「数の頑張り」が見えやすくなった一方で、それが何につながるのか見えないまま迷子になるケースも目につくようになったというのは、昨年も書いた通り。

ただ、迷子にならなかった(と本人は思っている)としても問題はある。それは、学んだことを体系立てて理解できないということだ。

体系(System)とは、複数の要素をある原理や秩序で整理することであり、それが整った状態のことを意味する。学習であれば、自分が学んだことを整理する原理のことだと思っていい。体系がないままたくさんのことを学んでも、別のこととの関係がわからないから理解が進まなかったり覚えられなかったりするし、いくつかの知識は永遠に使わないデッドストックになる。

「体系」と「綜合」

だから中学生とかが言いがちな「こんなことを学んで何になるんだろう」というのは、見方によっては、それを活かす体系を手に入れられていないから生じる疑問なのだとも言える。成熟した学問には必ず体系が存在するし、それだけに裾野を少し登ったくらいでは全体のことが分からない。学問の積み重ねとは、一朝一夕に「こういうものだ」と分かるような浅い歴史ではないのだ。

ところで、近年の大学業界では、こうした「専門」と呼べるような厚い蓄積のある分野だけを集めるのではなく、そうしたことを学んだ人も含め、多様な専門性を総合する、悪く言うと寄せ集めるような学部も増えているようだ。昨年のエントリで挙げた新しいカリキュラムも含め、特に文系学部では「これを勉強しました」と人に言えるところの方が少なくなっているのかもしれない。

その種のコンプレックスから、ゼミや研究室などの「専門」に特化し、それだけを(入口だけでも)学びたいという方向に意欲が高くなる人もいる。こじらせると、それだけで「自分の専門はこれだ」とか、そういうものがない人を見下したりするなんてのもあるらしい。気持ちはわかる。

でも、例えば社会学なんて学問は、まさに既存の分野を縦横無尽に学び尽くし、それらを「綜合」したいという意図で生まれた学問だった。だから「社会学って何を勉強する学問なのか分からない」という悩みが定番のように聞かれるし、それがコンプレックスな学生もいるようだ。

体系を選ぶ自由度の高さ

僕だってその問いに答えられる準備はない。ただ、フルブライト留学で経済学と心理学と社会学を学んだ小室直樹先生を師匠筋に持ち、また民俗学から出発して社会学と政治思想研究の両方に足をかけている自分としては、ひとつの専門性に固執することは、結果的に対応できる課題やその解決策を縛ってしまうようにも思う。

たとえば「ネット依存」の問題。心理学や臨床の分野で研究が進みつつあるけれど、ネット利用はひとつの産業でもあるわけだから、依存の治療ではなく、依存する可能性のある人を減らそうと思えば、市場のインセンティブや法による規制も視野に入れなければいけない。ネットに依存しがちなのは思春期の女子が多いとなれば、教育や学校行政の問題にもなるし、家庭のしつけというなら、現代の家族がどういう状況にあるのかを知る必要がある。

このとき、「法」や「市場」といった専門性からだけ対策を論じると、それが別のところにもたらす波及効果が分からないままになってしまうという危険性がある。これはあくまで例だけど、様々な分野の学びに通じるということは、各専門分野の対処の仕方の違いや得手不得手を踏まえて、極めて実践的な解決策を提案する鍵になりうる。

特に社会学なんかは「自由度が高い」ことが特徴だと言われる。その通りなんだけど、勘違いしている人が多いのは、「社会学は、関心(=卒論のテーマ)を自由に選べる」という話じゃないということだ。選べるのは、自分の持つ知識をどのような体系の中で活かしていくかということ。統計的手法を使わなければ社会学でないわけでもないし、哲学的思索が含まれていないといけないわけでもない。そこにぼんやりとでも「体系」が存在すれば、そこにはオリジナルな、あるいはユニークな解決策の糸口がある。

「ピア」の力を借りる

ただ困ったことに、その体系というのは、自分で選ぶしかない。もちろん、先生の下で学んでいるうちに、その人の持つ体系に影響を受けながら、いくつもの分野の知識を整理していくことはできるかもしれない。だけれども近年の多様化したカリキュラムの中では、教員ですらその中身をすべて把握してはいない。どのような履修を経て、その考えに至ったのかを知るのは、自分しかいないなんてこともあるわけだ。

こうした事情を意識しながら、勤め先の学部では昨年、「ピア・エデュケーション」という取り組みが始まった。もともとは2011年ごろから動いていたのだけど、それこそ体系的なコンセプトのもとに、それらの学部事業を整理・再編する形で始めたものだ。

鍵になっているのは「学生どうしでの学び合い」だ。こういうことを言うとたまに、学生たちにわいわいと楽しく「おべんきょう」させる甘やかしだ、という批判が飛んでくるのだけど、目指しているものはそれとは異なる。

学生どうしが自主学習の機会をもつことによって期待される効果のひとつが、「学生目線での基準づくり」だ。教員が何を言っても「どうせ先生は頭がいいから」となりがちな学生でも、ひとつふたつ学年が上なだけの同じ学生が、自分よりしっかりとしたことを発言し、評価されるのに触れることで、「このくらいできて当たり前なんだ」という基準が生まれる。うまく機能すると「自分も先輩のようになりたい」といったモチベーションを喚起することができる。

いわば「良いピア・プレッシャー」を学びの動機にしてもらうということなのだけど、もうひとつ大事なのが「体系の伝授」だ。どうしても大学というところは「先輩による履修指導」というと「どの科目が楽勝なのか」といった抜け道の伝授になることが多い。だが勉強した学生がこうした指導、アドバイスに参加することで、「これとこれは併せて履修した方がいい」「この話はこの話につながるのか」といった、教員からは見えにくい「学びの間の体系」に通じる情報が得られることがある。もちろん完全なものではないにせよ、それこそ学生どうしでなければできないコミュニケーションだろう。

アプリによる解決も

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教員側としてもただ見ているだけではない。これまでも勤め先では「履修モデル」のようなものを作成し、こういうテーマに関心があるならこういう履修を、といったことを示してきたのだけど、昨年からはより科目間の関係が理解しやすいデータベースアプリを開発し、学生に配布している。

「社会学部キーワード集」と名付けられたこのアプリケーションは、「キーワードによる検索」「特定の科目と関連性の高い科目の表示」といった機能を備え、従来の「空き時間に取れそうな科目を履修する」といったやり方とはまったく異なる履修計画をサポートするものになっている。少なくとも社会学部の専門学部としては、こうしたアプリによる履修計画のサポートというのは珍しい例だと思う。

あくまで大事なのは自分だけの経験であり、また勉強と同じくらい人格的に成長することや、知己を得ることも大事だ。でも、勉強においても何か手応えのある学生生活を送りたいと思うなら、こうした新しい手段を試してみるのもいいかもしれない。ちなみにピア・エデュケーションについては勤め先のウェブサイトにも情報があるので、そちらも参考にしてもらえれば。

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