涙の数だけ、強くはなれない

雑記

歳のせいなのか、社会学者としての文化的な関心なのかは分からないけれど、去年くらいから「幸福」について考えることが多くなった。世界的に研究が進んでいる分野が主として経済学に依拠したものであることもあって、学問の世界ではおおむね「幸福」を主観的なものと捉えて定量化しようというのがトレンドっぽいのだけど、僕の関心はそっちではなくて、「なぜこんなにも”幸福になる”ことが強迫的に目指されなければならないのか」「そこで”幸福”と呼ばれているのはどんな状態なのか」といったテーマの方がより興味を惹かれる。その中身についてはまだ考え中といったところなのだけど、年の締めでもあるので、ここらで今年気になったトピックをふたつ取り上げておきたい。

ひとつは、今年リリースされたアナログフィッシュのアルバム『Almost Rainbow』に収録された「No Rain(No Rainbow)」の話だ。柴さんがnoteに書いているように、この曲の詞には幸福を巡る「一歩踏み込んだ」要素がある(関係ないけど下岡さんの詞にたびたび登場する「君」や「彼女」の啓示的なセリフがすごく好きだ)。

今ある幸福に対して、僕は何の代償を支払うのだろうと問う。心理学的な等価交換の原理に近いかもしれない。フェスティンガーの認知的不協和の実験で知られるように、人は「代償なしの幸福」や「報酬なしの苦労」に対しては、不協和状態=心の矛盾を抱えてしまう。この曲でも「この幸せの代償に僕は何を支払うんだろう」と問う「僕」に対して「君」は「ただ美しいだけで虹は雨の対価ではないでしょ」と返す。幸福は幸福であり、何かの代償によって成り立っているわけではないのだ、と。

いわゆる「無償の愛」のように聞こえるかもしれないけれど、僕の解釈は違う。この曲における「君」の幸福観は、「代償はなくても幸せは成り立つ」ともとれるけれど、逆に言えば「どんなに頑張ったからといって、その報いとして幸せになるわけではない」とも言っているからだ。ここで鍵になるのは、「雨→虹」という自然科学的な因果関係は、「苦労→報い」という主観的な因果関係とは別物だ、ということだ。

昨年論じた宗教の話を引き合いに出すと、この曲の歌う幸福観は、幸福にその出来事以上の意味を見出さないという点で「個別的問題設定」であり、行為系の原因帰属システムだと言える。このシステムの中では、たとえば「今日の試合でホームランが打てた」のは「努力の結果」かもしれないけれど、「今朝、左足から靴を履いたから」かもしれないと考える。幸福は何かの代償によって成り立つかもしれないけれど、単におまじないが効いただけのことかもしれないというわけだ。

こうした幸福観は、心理的な等価性を求める僕たちにとって、実はとても厳しいものになる。「No Rain(No Rainbow)」の最後でも「僕」は「でも」「君に何かしてあげたいっておもうよ」と歌う。多くの人の幸福観はそんな感じだろう。何もお返しできないのに一方的に尽くしてくる相手に対しては申し訳ない気持ちになるし、逆に必至に相手に尽くしてしまうことで、心のなかに見返りを求める気持ちが生まれてしまう。なのに、幸福は何の因果からも独立して、ただそこでそうあるだけのものなのだ、と言い返されるわけだから。恋愛関係だけでなく、ソーシャルメディアで他者と繋がりながら「感謝」や「尊敬」を日々やりとりするのが当たり前になっている昨今ならなおのことだろう。

ここ数年ブームになっているアドラー心理学なんかは、そういう背景で人を惹きつけているのだろうなとは思う。ただそっちについては言い尽くされている感もあるので、それに関連したふたつ目のトピックとして、昨年から注目していた「プリンセス系自己啓発」の話をしてみたい。プリンセス本と言っても僕がそう呼んでいるだけのものなので、「また客観的に指標化できないことを概念化する社会学者特有の病気かよ」ってところもあるのだけれど、個人的に気になっているということなので勘弁して欲しい。

少なくとも、『アナと雪の女王』のヒットと前後する時期に、「プリンセス」をモチーフにする女性向けの自己啓発本が目立つようになっていることは確かなようだ。『私は、ありのままで大丈夫』『私に、魔法をかけるノートブック』などのディズニーを直接モチーフにしたものや、「プリンセス」「シンデレラ」といったワードの踊る本が、小さな書店でも平積みでコーナーになっていたりする。

その中身に入る前に、ここまでの経緯を確認しておこう。牧野智和さんが分析しているように、女性向けの自己啓発本は男性向けのそれとは異なり、社会生活の中で疎外された「ありのまま」を回復するというモチーフを取ることが多かった。「断捨離」「片付け」なんてのはその現代的な表れのひとつだろう。疎外されない「本当のわたし」が私の中のどこかに眠るはずで、それを回復しようというわけだ。

もうひとつ、プリンセスも現代の消費の中で重要なアイコンになっている。遡った限り2011年頃には”Girlie-Girl Culture”と呼ばれる少女向けプリンセス消費が登場してきていることが指摘されている。ここで問題になっていたのは、米国の少女たちが「女の子っぽい」消費文化の中で自らのジェンダー役割を引き受けてしまう結果、王子様に幸せにしてもらう受動的な態度を内面化してしまうのではないかということだった。

リアルタイムでのアメリカの状況は分からない。だが日本においてもこの数年、女の子たちの消費にプリンセスのモチーフが入り込んでいることは間違いない。ハロウィンのコスプレで街中を歩く子どもの姿は珍しくないし、プリキュアだって「プリンセスを目指す」とかだ。ただ、女性向けの自己啓発本を実際に何冊も読んでみると、特に『アナ雪』以降、「プリンセス」の表象するものが変化してきているのではないかと思うところもある。

ひとくちに言ってしまえば、そこで目指される「プリンセス」とは、「私の中に眠る可能性を認め、それを素直に伸ばしていこう」という姿勢や、それを貫く存在のことだ。血統だとか、王族としてのノブレス・オブリージュだとかが問題なのではない。オードリー・ヘップバーンに始まりエルサに至るまで、あるいはモデルやタレント、女性起業家まで含めてロールモデルとなっている彼女たちには「王子様のもたらす幸せ」を待つ姿勢はほとんど見えない。私は幸せになることができる、その価値があると確信し、その実現のために「好きなことを選びとる」というわけだ。

面白いのは、ここでも「努力」は必須の条件というわけではないということだ。むしろ幸福は「私の中に眠る可能性」の中にはじめからあるわけだから、自分を信じることを通じて幸せを必然として受け入れる姿勢のほうが大事だということになる。世俗における成功ではなく、主観的な幸福の方に達成目標を置くという点で、こうした考え方は「悟り系」のフォーマットに近い。世界との関わり方を変えることで、運命が引き寄せられたかのように生きようというわけだから。

原理としてはまったく違うけど、今年目についたこの2つの幸福観は、幸せが何かとの等価交換で成り立つという僕らの感覚とは異なる考え方をしている。それが何かの世相の反映であるのかということについては判断できないし、どのくらいのポピュラリティを持っているのか(そもそも数字が問題になるようなものなのか)も不明だ。でも、幸福が求められているのに、その内実が自分の行為とは切り離されたものでしかないのだとしたら、そんな世界をどうやって生きていけばいいのかな、と思う。よくも悪くも、幸せになることに今までとは違う能力やスキルが必要な時代なのかもしれない。

Cinderella Ate My Daughter: Dispatches from the Front Lines of the New Girlie-Girl Culture
Peggy Orenstein
Harper Paperbacks
売り上げランキング: 125,912
プリンセス願望には危険がいっぱい
ペギー オレンスタイン
東洋経済新報社
売り上げランキング: 339,214
タイトルとURLをコピーしました