痛ましい事件が起きると、僕らの心はひどく動揺する。自分の目の前で起きたことならもちろん、メディアで報じられる事件、事故、災害といったニュースにも僕らはこころをかき乱され、現場に花を手向けたり、少しでも何かの役に立てばと寄付をしたりする。それじたいは単なる僕らの心理の問題でしかない。行動経済学においてはこうしたメカニズムを、いわゆる経済学的な「合理性」に対して、僕たちの「非合理」なマインドの特性として扱うらしいのだけど、社会学という学問においてはもう100年以上、それが本人の中でどのような合理性を伴った行動なのかということを論じてきたわけで、殊更に目新しい話のようには思えない(もちろん、それが実験によって検証されているということが新しいのだが)。
さて、そういう社会学的な立場からすると、悲惨な事件に対してあれやこれやとウェブ上で「論じる」という行為も、その内容以前に、事件による動揺を鎮め、「あり得ないこと」を「あり得ること」として処理するための解釈行為だと考えることができる。もちろんその中には、報じられているだけの情報からは知り得ないはずの深読みや強引な正当化、特殊な事例の過剰な一般化といったものも含まれるけれど、そもそもの動機が「合理化」なのだから、それも致し方ないところがある。必要なのは、現実の出来事と合理化のための解釈、そしてそれらを包含する大きな社会の動向を峻別した上で話をすることだと思う。
そんなわけで、いまからここで書く話は実際に起きた事件の解釈ではなく、ここ最近ずっと考えていたことであって、たまたまそれが「解釈の枠組」として使えそうだからといって、過剰な一般化を志向するものではない。必要上、実際の出来事やウェブでの解釈にも言及するけれど、それは別の事例でも可能だし、おそらくそうすることも可能だったはずのものだ。
2年ほど前に、「神と天才とユートピア」という名前でブログに連載記事を書こうと試みたことがある。僕はどうしてもスタートとエンドの決まっていない連載というものが書けない人間で、最初から構成をかなり作りこんで書き始めるタイプなのだけど、せっかくブログという媒体があるのだから、思いつくままに考えを深めるために書くという練習をしてもいいんじゃないかと思ったのが発端だ。
- 神と天才とユートピア 第一部 「ソーシャル」なものの終わり (1) 素晴らしき総表現社会
- 神と天才とユートピア 第一部 「ソーシャル」なものの終わり (2) 「ビッグデータ」という名のゴミ
- 神と天才とユートピア 第一部 「ソーシャル」なものの終わり (3) 非言語化するウェブ
- 神と天才とユートピア 第一部 「ソーシャル」なものの終わり (4) 分かりあえないってことだけを
ただでさえ未整理の文章を要約するのは簡単ではないけれど、要するにここで言われていることは、ソーシャルメディアで自己アピールすることがますますリスクになっているにも関わらず、ソーシャルメディアの仕組みが僕たちにパーソナルな心情の交歓を要求するために、実際のコミュニケーションはどんどん劣化していくという話だ。もう少しくだけた言い方をするなら、ソーシャルメディアなんか使いたくもないのに、そこで「自分の気持ち」くらいしか書けないという不自由さが僕たちを縛るようになっているという話だ。
その後、この連載で考えようとしていたことは「ポスト・ソーシャルの時代の原理」ということで、「里山ウェブ」だとか「IPPS消費」だとかの枠組みに横展開していく。これらの話題を連載の続きという風にしなかったのは、考えようとしていたことの中心が、経済の話というよりは社会の、あるいはそういう社会を生きる僕たちのあり方そのものにあったからだ。
2年ほど連載を放置している間に、色んな材料が出てきたようにも思う。この間、たとえば10代のFacebook離れは深刻化しており、Twitterの利用者も横ばいであるという。SnapChatなどのエフェメラルSNSの利用者は増加しているようだが、そこでもメッセージをいちいちスクリーンショットで保存するなど、回り回って無意味な手間を増やしているように思える。コミュニケーションとは無意味な手間をあえて挟むことなので、それはそれで別に問題はないのだけど、そうまでして「繋がりうる」関係を維持しなければならないことのコストが、僕らの「ソーシャル疲れ」を誘発している。
驚くべきなのは、「なぜソーシャルメディアが僕らを疲弊させるのか」について誰もが論じるようになった一方で、思ったほどソーシャルメディア離れが進んでいないことかもしれない。ビジネスの中心はソーシャルメディアやソーシャルゲームなどのパーソナル・コミュニケーションを含むICTから、そのコミュニケーションのビッグデータ化を経て、IoTやFinTech、AIなどの、必ずしもパーソナル・コミュニケーションを必要としない技術の方にシフトしつつあるので、いつまで続くのかは分からないけれど、ソーシャルメディアとの距離感は広がっているにも関わらず、縁を切るのは難しいという状況のようだ。
肌感覚で言えば「ソーシャルメディアは使っていない」という若者を目にするのは珍しくなくなったし、5年前と比べれば投稿の頻度も非常に下がっている。ミドル世代が息をするように自分の思ったことを投稿する一方で、若い世代はそれを遠巻きに眺めつつも、あくまで「読み物」として接しているだけのように見える。
こうした環境がソーシャルメディアを「少数の発信者」と「多数の受信者」に二極化させつつあるのかもしれない。実際、読み手の面から言えばソーシャルメディアはまだまだ優秀な媒体だ。多くの若者が、自ら情報発信はしないものの、複数のアカウントを使い分けながら、エンタメのジャンルに応じた情報収集を行っている。それが顕著なのはTwitterだろうけれど、もはやそれはスマホに届くニュースアプリの情報と同じような情報源として機能し始めている。
すると当然のことながら、情報を発信する側にも受信者を意識した「上手さ」が求められるようになる。ラジオでも何度か話している通り、今年に入ってからインディーズミュージシャンのライブの現場に足を運ぶようになった関係で、彼らのTwitterのアカウントをチェックするようになったのだけれど、みんなとにかく「営業」が上手だ。ライブやリリース情報の告知だけではなく、メディア出演から他のアーティストとの交流やプライベートなオフショット、ファンとの交流まで、ステージ外でもこまめな情報発信を心がけていることがよく伝わる。考えてみれば90年代前半生まれの世代は思春期とソーシャルメディアの勃興が同じ時期だったわけで、「読み手」から「発信者」に立場が変わっても、アーティストとしてのソーシャルメディアとの距離感はそう変わらないということなのだろう。
『ディズニー化する社会』という本で社会学者のアラン・ブライマンは、ディズニー的な原理が世界に広がっていることを論じているのだが、その原理のひとつが「パフォーマティブ労働」だ。社会学の中ではその前にも、アーリー・ホックシールドの提唱した「感情労働」という概念があるのだけど、パフォーマティブ労働はそれよりやや広い概念だ。すなわち、感情労働が「お客様に自宅のような気分でくつろいでもらうために感情的なサービスを提供する」ものであったのに対して、パフォーマティブ労働は「労働が、職場を劇場と同類だとみなす劇場的パフォーマンスに類似したものになる」という意味だという。ディズニーランドにおける「キャスト」「ゲスト」の比喩がその象徴になる。
ブライマン自身の考察は、ホックシールドの概念との違いについて明確にされているわけではない。だが両者の間には「職場」という面で明らかな違いがある。感情労働においては、「そこが相手にとっての職場であることを意識させないように」するのが従業員の勤めであるものの、従業員にとってそこが職場であることは変わりなかった。そこではゴフマンのいう「表極域 Front」と「裏極域 Back」は明確に区分されており、だからこそ「職場」で「心からお客様のためにサービスする」という深層演技を要求されることのジレンマが問題になっていたのだ。
ところがパフォーマティブ労働においては、そうした区分すら存在しない。もっといえば「仕事」と「遊び」の境界すらも曖昧であり、キャストには「日々、夢の舞台に立つものとしての自覚と責任」が求められる。そしてその舞台を心から楽しんでいることが大事なのであり、「お客様の前に立っている時だけそういう演技をする」という「表と裏の使い分け」は、もしあったとしても徹底的に隠されなければならないのである。
この週末に起きた本当に痛ましい事件についてのアイドルのコメントと、それに対するはてブの反応を見ていて思うのは、パフォーマティブ労働についての送り手側と観客側(あるいは解釈側)の見解の大きな相違だ。もちろんここには労働だけでなくパフォーマンスを巡るジェンダーの問題や商業的な慣行などの背景があるので、物事は多面的に見なければいけない。でも、ここまで述べてきたことの延長で考えるならば、「人前でパフォーマンスすること」とソーシャルメディアが結びつくとき、表極域と裏極域の境界線は以前よりずっと薄くなるのであり、またそれにも関わらずアーティストには「今日のライブの告知」を欠かすことができないという現実があるのだ。
報道される限り、被害者は以前から容疑者のストーカー行為に悩んでおり、警察に相談していたのだという。想像するに、ライブの告知だからといって自分の立ち回り先をネット上で明らかにすることに抵抗はあっただろう。だが他方でイベントライブの現場では、共演(対バン)するアーティストの名前も含めてソーシャルメディア上で告知し、相互に宣伝に協力するという関係が成り立っているのであって、自分だけそのリスクを回避するために告知に協力しないことは、他のアーティストから「タダ乗り」されていると見なされたり、リスキーであるためにもう呼ばれなくなるという別のリスクを負うことにもなる。
「神と天才とユートピア」というタイトルの背景には、ソーシャルメディアでフラットにコミュニケーションするという時代が終わり、再び送り手と受け手、キャストとゲスト、パフォーマーとオーディエンスが区分されるようになる時代に生き延びようとすれば、誰もが「神」とか「天才」と呼ばれるように、あるいはあたかもそうであるように振る舞わなければならなくなるという問題意識があった。ソーシャルメディアでロングテールの人々に可能性が与えられる時代には、同時に誰もが「神」や「天才」、「プリンセス」「アイドル」などと呼ばれるように振る舞わされる場に面するのであり、またそのためのコストやリスクが結果に見合わないものだとしても、それを拒否する手段はないのである。
以前はこうしたリスクやコストは「有名税」と呼ばれ、メディアで特権的なプレゼンスを有した一部の人々に限定して課されるものだったし、だからこそ芸能の世界にも互助会的なリスク防衛や高いギャランティ、裏社会とのつながりといった要素がつきまとっていた。ところが現代のロングテール(あるいは「底辺」と呼んでもいいだろう)におけるパフォーマティブ労働には、こうした防衛の仕組みや見返りがないにも関わらず、リスクやコストだけは一定程度存在している。客に電話番号(今ならLINEか)を聞かれたことのない居酒屋バイトを探すほうが珍しいかもしれない。
考えなければならないのは、「ロングテールにチャンスを与える仕組み」と「それがもたらすリスクやコスト」がつりあうような仕組みだ。もしそれが存在せず、ソーシャルメディアがロングテールに「売れるためには高度なリスクを引き受けよ」という形でのチャンスしか与えないのであれば、わざわざそれに手を出すのはギャンブルだし、要するに以前の社会に戻すしかなくなる。エンタメだけの話ならそれでもいいのかもしれないけれど、ことはもう少し広い範囲の話なのではないか、と僕は思っている。
明石書店
売り上げランキング: 588,405